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雑な記事

試練

大きな人物になるまえに大きな試練がやってくる。立ち上がれなければ這ってでも進んだものに道がある。

園田は。
俺もやってやる。
やってやるぞ。
と言った。

聴いていた烏丸は言った。
凄いなぁ。
そんなこと考えて。
園田ならできるよ。
絶対にできるよ。
そう言って笑った。
笑って見せた。

烏丸は、一足早く昼休みに出た。
駅前の日高屋。
少なからず混んでいた。
他人と隣接しなければならない。

烏丸は。
少し歩いた所にある松屋に向かった。
松屋も同じような状況だった。

烏丸は少しイラっとした。
セブンイレブンに行った。
空いていたので少し長居をした。
何を食べようかな。

やがて食糧をもってレジに並ぼうとするとレジが長蛇の列になってしまっていた。

おしまい

例外処理ほど高偏差値の学習項目だという実態

受動態では動作主(能動形にした場合の主語=名詞)の前に置く前置詞に、用例として”by”が多く用いられる。その一方で、たとえば”be known to ~”とは「知られている」という意味の受動態であるが、”by”以外の前置詞をつかう受動態も数多く存在し、比較的偏差値の高い生徒になるほど、しっかりと暗記を「させられる」。

偏差値60が、およそ全体上位17%にはいる学力であるから、彼らは正解率20%程度の問題の「できる/できない」が腕の見せ所なのである。偏差値50の生徒であれば、「あー、そういうの面倒くさいしー、やらないんだよねー」と言ってはぐらかす学習項目ばかりを、丁寧に拾っていく勉強法になってくるものだ。中学数学(≒高校受験数学)のほうが、このあたりはわかりやすいかもしれない。埼玉県の公立高校入試(といっても筆者がフォローしていたのは数年前まで)で、数学は小問集合(大問1)を全部解くことが偏差値50(数学)の切符なのである。典型的な内容を正しく理解したうえで最低限の応用力があればすべて解ける問題(大問1の小問集合)が、実際に偏差値50の分水嶺として設置されているようなものだ。

もっと与太話をすると、数学は、数学という科目の学問的体質から当然であるが、応用力の優れた学生であれば本当に基本的なことさえ覚えていれば解けてしまう問題が多々ある。何が言いたいかと言うと、偏差値の割に数学は得意だが英語は苦手だという生徒は100%、例外処理という処理機構が弱い生徒である。多くの問題を処理できる急所のような内容ばかり抑えたがるから、by以外の前置詞をつかう受動態と言われたときに、彼らは直感的に重大な学習項目だと認識できないことがある。逆に、例外処理を覚えることに長けた生徒も多く、高校受験は甘んじた結果になったものの、大学受験で有名私大生に返り咲く人は多い。

高校に入ると偏差値が10落ちる。偏差値70の高校に通う生徒は、超大雑把に言うと、偏差値60の大学に通う学生になる。偏差値70の中学生の勉強法は、中学受験の貯金の食いつぶしや、我武者羅な勉強法の根性論であったりすることが、珍しくない。少なくとも、公立高校入試ごとき満点を狙っていく中学生だった彼らにとっては、偏差値60の生徒(正解率20%に敏感になること)を三年間やらされるということが、もはや全く新しいスポーツの「はず」なのである。大学一般入試が上手くいかない、変な話三年間まったく機微機転のわからなかったひととは、そのようなケースも多々あるのである。

ボードゲーム説

すべての人間は大なり小なり、規定の範囲内であれば賢い。大なり小なり賢いのではなく、基本的に賢くて、規定の範囲に大小がある。ババ抜きで勝ったら銃が出た。クチも利かずに勝つからだ。納得がなければ限界まであるのは当然だ。そんなことを言う人間に限って、気が狂ったように、「デートをしたのだから、別れるならキチンと筋を通していかないか。」と顔を真っ赤にすることもある。結局、みんな、毎度なにかしらボードゲームのように括った範囲内で頭を使っているし、そのボードを叩き割られるようなことをされると困るのである。別の考え方をすれば、そのボードの大きさ、ここでは大きさという日本語を用いるが、それについて妥結できていることが合理的な交渉に違いないのだが、そんなことを一からやること自体が、メタ的な意味合いになるのだろうか、その手の妥結に他ならない、言葉遊びがしたいのではない。結局みんな、自分の得意なボードに相手を引きずり込んで上手いことやりたいなと、思うものなのである。

しかし安穏と暮らしていける範囲内とは、むしろそのような「ボードゲーム説」の意味がわからないような集団のことを言うと筆者は思う。どういうことかと言うと、実際前段落の話が聞くに堪えなかったひとはかなりいると思っている。そんなことを考えていたくないと言うか、率直に「気持ちが悪いだろう」、別に相手のボードを叩き割るつもりなどなく、納得がいかなければ教えて欲しいし、負けでいいやという感覚も誰しもが養っているものではある。しかしそれは上で述べた「ボードゲーム説」が、穏やかに実行されているだけで、一応、意味もなく闘ってはいるのである。安穏と暮らしていける範囲内とは、そもそもボードゲームが一切行われない集団の範囲だろう。機能不全家族とは、家族間で経済的な利益、不利益の折衝があるのは当然として猜疑心が横行しているような家族である。そうではない家族(機能家族)とは、典型的な安穏と暮らしていける範囲である。

勝てるゲームをしたい。冷静に考えれば、ボードの大きさを自分で決めることができるのであれば、直感的極論として絶対に負けはないだろう(そいつの頭の中で)。しかし冒頭ではあのように述べたが現実に賢い、賢くないは確かに存在して、相手のボードゲームを受け入れたうえで勝ち始める人間もいるのである。喩えて言うならクモの巣をテンテンテンテン…とクモのように歩いては食肉に長けた生き物なのだ。住んでいたクモの御機嫌も構わず、その巣で暮らし始めるオオキナモノなのである。上がり込む、上がり込まれる、上がり込んでしまうということがあるのである。それが、「安穏と暮らしていける」という願いを奪い去っていくのである。

違うなら違うし違うんじゃないの

おしりファルコンは元大リーガーのイチローさん(鈴木一郎)を引き合いに出す発言が多い。これについて、「彼は自分がイチローに匹敵するとAの観点から思っている、しかしBの観点から大きく劣っていることに気づいていない、イチローさんに失礼だし、真に受けた青少年らは可哀想だ。」というコメントをした高校教諭がいた。冗談めかして「ファーストゴロの打ち方を追求しているうちに本当にそのようなレベルに衰えた」、その裏では大学生に向かって「野球ヲタク以下だ」など目に余ると言う。基本的に学校教諭とは、教室の統制のために「デタラメ」なことを言い続けなければならない。おしりファルコンのような大人になるなとは正論に違いないから、一般青少年に向けて発信するのは仕事の範疇として、いかにその考え方を免罪符にしているかは周知の事実である。

違うなら違うし違うんじゃないの。イチローさんに匹敵しないのであれば、匹敵しないと思うし、実際問題匹敵しないんじゃないんですか。本当の正解を言うと、こういうリアクション、特に「誰もそんなこと言っていないだろう」と顔を赤くして反撃すれば、「従順」、「教員に対して素直」という評価を教員側で採点する、「だけ」、である。

高校教諭に逆らいたかったらメタ的にいかなければならない。筆者も高1のとき、「千円で買える個性で満足する人間になるな」という一行と共に染髪(茶髪)を咎められたことがある。担任からである。件の一行が一切納得がいかなかったため、筆者だけ黒髪に戻さず一週間登校してみせた。結局、担任とは口論の末、「命令として黒髪に戻せ」と言われたので、ハッキリ言って差し上げた、「結局それだけの話なら最初からそう言って欲しかった。」。一人の人間として、コミュニケーションをとりたいのであれば、もちろん構わないが、教員というパワーバランスで強制されるのは苦痛でしかないことを、「イイセンセイ」は知っておいて欲しいと切に思う。

何事も社会勉強だと言ってしまえば、間違った人間にも頭を下げなければいけない、しかし先述の通り高校教諭がいかにその考え方を免罪符にしているかは周知の事実である。大人を養成していると言ってしまえば、間違えて構わないのである、大学教員になるとさらに酷くなるが、もはや青少年育成などという公儀公論自体を放棄してくれているので、鬱陶しくはない、ただ提供しているものの正当性は更に劣悪になる。そんな自分たちの至らなさに詳しければ、オソライソ編入学院が高等教育機関に匹敵したがっていることにしてこき下ろせるものだ。しかし、違うなら違うし違うんじゃないの。

中間層学生

高1の春に「東大完全攻略数学」のような難関校本番対策の参考書に手が伸びる高校生。最終到達地点を見てみたい、「見る」という動作をしてみたいと思うのは自然なことだ。しかし、教員・教諭という立場の人間でこれを是とする者は、彼らのすべてではない。少年野球の児童にプロ野球の試合を見せてみる感覚で絶対的に必要なことだとする教員もいれば、全く現実のわからない一定数を生み出して終わると否定する教員もいる。

志望校合格とは、現実的実現の目標である。大人として目標に対して正しいマイルストーンを置くことは、全ての大人がおこなう。たとえばスポーツクラブの会員制サイトを製造するITベンダーはガントチャートと呼ばれるもので工程を細かくスケジュールにしてある。しかし東大に行くような高校生に、「君たちが眼中にないような連中が大人になったときにやる仕事」の話をしても、ほとんどの者が困るのである。何が言いたいかといえば、君たちはまだまだ人間として、公立の小学校、中学校で、どんな馬鹿馬鹿しいヤツらだとしても同じ教室で画一的に学んでいたようなものの、残りが、あるんだよ、ということだ。

東京大学や、それに準じる一流高等教育機関が、「〇〇は▼▼」と言ったときに、それを真実として拝受する者は大勢いるのである。しかしそれは、「東大完全攻略数学」のような参考書をある種頂点に君臨させながら妄想するヒエラルキーの病理、その具体的な陽性反応なのである。高学歴は偉い、高学歴の言う事は正しい、という考え方が、「自分ごときのために処方されたクスリだ」と思える人は全く少なくない。しかし、それが当たり前のことだというのであれば、全く現実がわかっていない。どういうことかと言うと、Aランク大学に全く用のないものの、現実的に自分のレベルに見合った大学があって、そのルートの人生を真面目に生きていく予定の人間は、たとえば東大完全攻略数学という参考書に対しては「なにか神聖なもの」というレッテルを貼って終わりである。自分が直面する現実的な課題を解決してくれさえすれば構わない人間を現実主義者と言うべきかはわからないが、逆に全く賢くない「よくわからないが□□を■■だと思っていると上手くいくんだよね」という人間と、上述のような一流の発言に真剣に感化される必要のある人間の間に、現実主義的な意味で賢くあるべき人間は確かに存在しているのである。

受験体験記(寄稿)

はじめまして私は、ツバサと申します。この度は体験談を記させていただきました。ご査収ください。

編入学試験を受験しようと思った本当のキッカケ。私は、東京都の私立大学、美術大学に通う一年生でした。もともと、コンクールで優秀賞を受賞したり、美術部員だったりして、絵は得意でした。本当は、地元の国立大学で歴史学を学びたかったのですが、高1のときに男子生徒から暴力を振るわれて、ショックで一時期不登校になったことがありました。なんとか勉強に復帰するために絵画に逃避していました。

大学一年生のころ、インカレのイベントで知り合った都内の私大生(女子)と交際を始めました。彼女は、ゆめきちといいます。彼女は演劇部に所属していて、背が高く、素敵だなと思いました。交際が始まってから、私は精神面でドンドンと回復していきました。前はすごく痩せていたのですが、女子らしくなってきたかなと思いました。ゆめきちには、「ありがとう」と言うべきなのかな。ゆめきちも友達の延長で女子といる時間を楽しんでいるように思えて、変な話ですが気が楽でした。心や内面が昔に戻るにつれて、もともと勉強したかった歴史学にほんの少しだけ興味が湧いてしまいました。編入。ここで編入を知るのですが、Twitterで「日本史の編入は一橋の赤本を使うといいよ」という噂が流れていました。書店で購入して机に置いた瞬間、なんだろう、自然と涙がこぼれました。「これじゃ高校生じゃないか。」

私はある夜、ゆめきちと二人で渋谷で遊んだ帰りの田園都市線で、終電だったのですが、車両で二人になりました。編入の勉強していること、伝えなきゃいけない気がしていました。するとゆめきちは、右手を伸ばして、私の右腕を背中から、優しく握って、耳に頬を寄せていいました。「女の子と付き合うなんて夢にも思わなかった。男子とは、ずっと冷めた恋愛だった気がする。心が焼けるようになるのが、まるで身を任せるように確かな感覚だ。」

私は、打ち明けなければいけないと思いました。しかし、ゆめきちは、とっくに知っていました。私に寄りかかったまま、「どうして?」という声が聞こえるくらい、静かに泣いてしまった。私は、私の駅で、二駅先のはずのゆめきちと降りました。

次の日の昼間に、やっとゆめきちは話してくれました。私が思っていたよりずっと、ゆめきちのほうがセクシャリティに悩んでいて、演劇をするのも、中学時代に患った解離性の健忘を前向きに考えながら周囲の反対を押してはじめたことだったのだと言ってくれました。私は、私のほうがゆめきちにはなくてはならない存在になっていたことに気が付きました。台所のシンクでコップを片付ける背中が、いつもの少し大きな背中が、傾いたせいなのかな、一瞬小さくみえたとき、何もかもわからない自分を知りました。女子同士って、どういうことなんだろうな。さっぱりわからない。「これじゃ高校生じゃないか・・・『そうだ、そんな気がします。』」

私は、見送った東京の空に言いました。ゆめきちのほうが大事だ。

編入学試験は、地元の国立大学ではなく、ダメもとで、都内私立の超難関校にしました。高校生だもんな。合格は、面接で「美大から」という所を徹底的に突っ込まれてしまい大苦戦してしまったせいかもしれませんが、筆記はできた気がしましたが、不合格。次の年には、学士編入のみになってしまったので、もしかするともともと厳しいところだったんだろうか、そういった下調べを全然誰にも相談しなかったなと思いました。

ゆめきちは、すごく大人に見えたんだけどな。ずっと一緒なのかな。神さまがいたらいいな。叶えてくれる神さまが叶えてくれるといいな。そう思って、池袋の公園で、ぼんやり空をみていると、もうゆめきちしか心に住んでなかった私は、涙が止まらなくなりました。心が、凍えるように寒い。LINEを読んだら、沢山の文字の中に閉じ込められそうな、不安がありました。ゆめきちが5分遅れて到着したときには、何もかも洗い流されたように、スクっと立ち上がりました。今日は、この手が叶えてくれた、握り返す私の手、ゆめきちを描こう。ずっと何枚も描こう。

おわり。

政治学を馳せる-O’Donnell & Schmitter 1986-

オドンネルとシュミッターの民主化研究

オドンネルとシュミッターの民主化研究とは、1986年共著 “Transitions from authoritarian rule: Comparative perspectives”(O’Donnell & Schmitter 1986)であれば、権威主義体制の崩壊過程に関する彼ら一連の研究である。権威主義体制とは、被治者(個人や社会組織)が、指導者(一名から少数)に服従するに指導者の持つ「権威(=他人を従わせる威力)」に服従しているとして、その政治体制のことである。権威主義体制の崩壊過程とは、一つの政治体制(権威主義体制)と他の政治体制への移行過程である。特にオドンネルとシュミッターの民主化研究は「自由化」と「民主化」を明確に区別したうえで独裁(両者の度合いが低い)から政治的民主主義(両者の度合いが高い)までの中間的形態として過渡期的形態を定義してみせた。1980年代当時世界中が注目していた「どのようにして民主化が起こるのか」というテーマに取り組んだという意味合いで独創的な研究である。また1980年代頃の比較政治学研究の流行は70年代民主化を経験した南ヨーロッパ(ポルトガル、ギリシャ、スペイン)に関心を寄せるものであったが、オドンネルとシュミッターの民主化研究はそうしたスペシフィックなもの(c.f.事例研究)というよりはむしろユニバーサルなもの(c.f.理論研究)を目指したという意味合いでも先駆的取り組みであった。その一方で国際関係論の文脈で語られる冷戦崩壊後(1989年以降)東欧民主化の事例を説明するに、オドンネルとシュミッターの民主化研究(国内政治的要因(c.f.タカ派とハト派))では説明力が弱く課題となった。【参考】

偏差値もボーダーラインもない入試

統計なき

編入学試験は、どんな問題が解ければ合格なのか?・・・これがわからないです。たとえば高校入試の数学で「三角形の相似の関係を見出しながら線分比を答える平行四辺形の描かれた平面図形の問題」の正解率が5割を超えることはありません。もしも正解率が2割であれば、偏差値50(上位50%)を目指すにあたって解かなくてもよい問題、偏差値60(上位17%)を目指すにあたって正解したい問題、偏差値70(上位2%)を目指すにあたって不正解が許されない問題です。しかしこうした分析は「正解率」と「偏差値」が必須です。しかし編入学試験にはなくできません。どんな問題を解ければ合格するのか正確なことは誰にもわからないのです。

中学生レベルという現実

問題です

現在では多国籍企業の世界展開が加速しているが、それによる問題も生じている。多国籍企業の世界展開によって生じる問題にはどのようなものがあるか。以下の内容をふまえて説明しなさい。

2019年4月10日にニューヨーク国連本部にて、”The Future of Work”(仕事の未来)と題されたILO創立100周年記念のハイレベル・イベントが国連総会によって開催されました。テクノロジーの発展や環境問題などで急激に変化しつつある今日の世界で、労働の需要なども大きく変わりつつあります。現実問題への理解を深めて、人間としての尊厳が守られる公正で道義的な仕事が約束される未来のために、どんなポリシーが効果的かなどを話し合う目的で開かれました。
今日私たちは、格安な衣類から輸入食品まで何でも簡単に手に入れることができます。しかし、一見豊かで便利な世の中でも、その下には弱い立場の人びとの人権をふみにじる、ゆがんだ不正義の世界が何層もひそんでいます。同じ地球にくらす仲間の人間が空腹や疲労や屈辱にじっとたえている現実をよそに、金銭的利益だけを追求する経済・ビジネスモデル、そしてそれに執着する企業や政府・そんなグローバル規模の現状を変えるには、私たち一人ひとりが意思を持って立ち上がるしかありません。【出典:2020年お茶の水女子大付属高校入試問題より(一部改訂)】

中学生レベル

解答例として、人件費削減のために、発展途上国の貧しい労働者を安い賃金で長時間働かせている、など書くことができます。

進歩

編入学試験で意識的に日東駒専など目指す受験生へ。最も効率の良いスタートとは中学生レベルの復習です。不合格になる中堅私大受験生の典型が「やっていられるか」と拒絶。しかし中学生レベルとは、受験生の具体的な中学時代を指して「進歩がない」と言うわけではないです。

何より求められる正確なボキャブラリ

問題です

(  )に当てはまる語句を答えなさい。

デジタルマネーで、給与を払えるようにするための規制緩和が検討されている。企業による給与の支払いについて、労働基準法は現金を使うことを原則として定めている。現在普及している銀行口座への振り込みも法律上は例外扱いである。政府はこの例外対象にデジタルマネーを加える考えだ。デジタルマネーとは、貨幣を使わずに電子情報のみで代金を支払う仮想貨幣のことである。
政府は2019年度の実現をめざしているが、お金を預かる資金移動業者が破綻した場合にすぐに現金を引き出せる仕組み作りが難航している。資金移動業者を所管するのは金融庁で、労働基準法を所管するのは厚生労働省と所轄官庁が異なり調整が進んでいない。
デジタルマネーでの給与支払いが可能となれば、(   )労働者の利便性が上がると言われている。銀行口座の開設に手間がかかる(   )労働者にとってはデジタルマネーの方がスムーズに給与の支払いを受けることができる。また欧米に比べると遅れている日本のキャッシュレス決済の比率を高めることにもなる。
この規制緩和によって、給与振込みを中心に預金を集めてきた銀行のビジネスモデルに変革がもたらされる可能性がある。【出典:2020年東京学芸大学附属高校入試問題社会科より一部改訂】

答えは外国人、ところで

理解出来た受験生に「規制緩和」の意味を改めて質問すると正確な解答者は100%もないです。しかし文章であれば前後文脈で読めてしまいます。そして論述で積極的な者はなんとなく読めてしまった日本語を果敢に使います。

「規制」の意味
「緩和」と「強化」の区別

最低限です。学生の誤用に「当局が規制していない物事」や「正しくは規制強化にあたる物事」を指して用いるなど典型的な誤用です。

ディフェンスに定評のある3年の池上

守備要員3年生が全員「池上」という名前とは限りませんし、同校3年生「池上」が全員守備力に定評のあるバスケットボール選手とも限らないわけですが、「貨幣を使わずに電子情報のみで代金を支払う仮想貨幣」と言われると「仮想貨幣」という専門用語を一つ知った気になれるかもしれません。しかし本当ですか、そういう語彙力の養成は確実に危険です。酷いと「それは仮想通貨と同じだから仮想通貨と同じ意味の言葉なのだな」とやってしまう者もいます。