H22神戸大学経済学部第三年次編入学試験問題(数学)より第五問
これをみても「近傍」と但し書きしないといけない理由がわからない人は、f'(4)を二つ答える意志があるのだと思われる。
H22神戸大学経済学部第三年次編入学試験問題(数学)より第五問
これをみても「近傍」と但し書きしないといけない理由がわからない人は、f'(4)を二つ答える意志があるのだと思われる。
H22神戸大学経済学部第三年次編入学試験問題(数学)より第四問
直線の切片をどのように特定するのか悩んでごらんなさい。きっとラグランジュ未定乗数法がとても便利な公式に思えてくるでしょう。
そうです、最初から手も足も出ないからウザいんです。ラグランジュ未定乗数法は便利なのです。
引用 橋本努『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』p150-151 筑摩書房 2021
本章では、現代社会の正統な文化とそのオルタナティブという観点から、ミニマリズムの意義を検討してきた。私たちの資本主義社会における正統な文化は、たくさん働いてたくさん消費する生活であった。ワーカーホリックになって働き、モノを顕示的に消費するような生活であった。ところが資本主義の発展とともに文化が成熟すると、正統な文化に変化が現れた。勤労の美徳は、しだいに評価されなくなってきた。他者の視線を敏感に感じ取りながら営まれる顕示的消費も、しだいに減ってきた。こうした変化のなかで、ミニマリズムへの関心が高まっている。ミニマリズムは資本主義の正統な文化から逸脱する生活であるとはいえ、その企ては私たちの社会において新たな正統性を獲得するかもしれない。ミニマリズムはこの社会を変革するたえの、新たなオルタナティブといえるかもしれない。
オルタナティブとは「代替の」という意味です。たとえば原子力エネルギーの代替エネルギーとして再生可能エネルギーが注目されています。代わりのものという意味ですね。ワーカーホリックとは「仕事中毒」という意味です。顕示的消費とは、たとえば自家用車を「カッコいいでしょ?すごいでしょ?」と顕示する目的で消費することを指します。
消費ミニマリズムとは、必要最低限度のモノで生活する営みのことをいいます。
沢山働いて沢山買う → 代わりに → 必要最低限度のモノで生活しよう
↑この命題が大衆消費社会の変革になり得ると思いますか?
格差とは、公平性が保たれず不平等であることを言います。公平とは、たとえば15個のリンゴを15人に1個ずつ分配することだとします。全員1個ずつなので公平です。
たとえばリンゴが1個増えて16個になったときに、残りの1個をコッソリ誰かに分け与えたとして、「えー、それは公平とは言えない」と言う者もいれば、「いいよそれくらい」という者もいます。今回のたとえばの話ではどう転ぶかわからないものの、完全に公平な状態が崩れてしまっているのは間違いありません。
逆に一個減って14個になり、食べられない人が出てきたとします。誰か一人に我慢してもらうという解決策は、「えー、それは公平とは言えない」という人をかなりの数で生み出してしまうと、私は思います。2個食べられる人が一人いる16個のケースと、0個食べられる人が一人いる14個のケースでは、共に完全に公平な状態が崩れてしまっていますが、16個のケースより14個のケースのほうが、より大きく公平性を損なったと私は思います。
人によって感じ方は様々ですが、完全に公平な状態が崩れたとき、公平性のあるなしで、優劣をつけることは、ややもするとできますから(↑いまやりましたね)、公平性が高い、公平性が低いということは日本語としてあり得るわけです。しかし本当ですか?私と全く逆の考え方の人もいるわけですから、迂闊に「〇〇は公平性が高い」とは言い切れないわけです。
ただしこの問題は「ジニ係数」という道具立てを利用することで、「16個のケースの方が公平性が高い」という一定の解答を導き出すことができます。しかし本当ですか?あくまで「ジニ係数」という単一の道具を、必ずしも今回のケースを分析するために生み出されたわけではない道具を、「使える」と断言して使ってみることは正しい結論を導いたとする根拠になるのでしょうか。
またこの問題は「貧困ライン」という道具立てを利用することで、「一個もリンゴを食べられないという絶対的貧困に直面した者がいるのだからより深刻な不平等だろう(16個のケースの方が公平性が高い)」と一定の解答を導き出すことができます。しかし本当ですか?リンゴを食べないと死んでしまうのでしょうか。
しかし今日「格差社会」という議題で問題視されるものは、「貧困」であって、圧倒的に14個のケースを問題視して言及するパターンがほとんどです。
貧困の問題を考えるとき、たとえばシングルマザーに注目することは、より深刻な貧困層である、たとえばホームレスを無視した議論をすることになりませんか?しかし、「だから貧困に関する議論としてナンセンスだ。」ということには、なりません。それは、世帯年収300万円台の家計に注目して、「子の大学進学への意識」という議題を考えることがナンセンスではないことと同様です。しかし、であればなおさら「どのようにして貧困を議論して、みせればいいのですか?」という疑問に至るわけです。アカデミックな手法として、既に多くの専門家が注目している議論に、自分も専門家を習って、参加してみるということは推奨されます。多くの専門家がシングルマザーに注目しているから、そのような小論文を書くことは、「受験生が的を得た議論をしようと努めてそうなった」という好印象を確実に勝ち取れます。小論文考査の予備校講師でも質の良い講師でないと、こういう教え方をしないですね。
グローバル化とは、欧米の投資家が日本企業に出資したり、日本企業が途上国に支社を立ちあげたりすることを、よいことだと信じることです。これは米トランプ政権が自国優先主義を掲げた2016年頃まで、アメリカという大国が主軸となって資本主義国の間で推進されていた考え方です。そういえばイギリスのEU離脱の国民投票も2016年でしたね。確かに統計(世界のGDPに占める貿易収支の成長率など)でみても2010年代後半からグローバリゼーションは後退していきました。グローバル化はいつからですか、ということでしたら、アヘン戦争の時代から東アジアはグローバル化の波に飲まれて久しいわけです。1960年代に日本で海外直接投資が盛んになると、それは「また日本が攻めてきた」と呼ばれるほどだったと言われています。1980年代アメリカで「双子の赤字」が議題になった頃には米機関投資家の海外債券投資が活発になっていたという事実もあります。反グローバリズムとは、ここにきて世界経済史の大きな転換点になりうるものでしょうか?
グローバル化とは、一国の経済や、企業製品の、国際競争力を試し合うものです。グローバル化を前提すれば国際競争力を増強する必要があります。そのために国内市場で独占を禁止し競争を促す自由化は、一定の整合性のある方法論だったのです。はたして、いまグローバル化と自由化を信奉した世界経済が大きな転換点を迎えているのでしょうか?言い換えれば日本国内の経済政策の呼吸(世界経済の転換と呼吸を合わせるように日本経済の新自由主義(市場競争を素朴に信じる立場)的な政策)は変わっていくべきなのでしょうか?
具体的に言うと、たとえば日本国内の課題である地域創生について、企業を「民活(民間活力)」とみなしていくさい、プラットフォームビジネスなどを奨励するなどして、自由化を図ることは正しい考え方なのでしょうか?
正社員と非正社員との間で、技能蓄積の機会(OJT)に格差があることは、非正社員がいつまでも生産性の低い仕事に従事せざるを得ない状態を作り出す。2010年代の安倍政権下で執り行われた労働政策は「経済成長のため生産性の低い産業から生産性の高い産業へと労働移動が促進していかなければならない。」というテーマがあった。しかし正社員とは企業が技能蓄積のために選んだ長期雇用者なのだから、労働市場で流動的な人材とは非正社員である。直近の10年間でみても、非正社員では人手不足を埋めることしかできないかった。ここで技能蓄積の高い人材が流動化する頃には、もしかすると正社員においてすら企業は技能蓄積を怠るようになってしまわないだろうか。労働市場で技能蓄積の高い人材が手に入るようになれば、ブラック企業のように、労働市場にフリーライドする企業は必ず現れるのである。
※下の参考:ハイデガー『存在と時間』
物事は、「存在(存在する理由または目的、あるいは本質が不明である)」と「存在者(明確なもの)」に分けられると言う。時間は、切り離されて孤立した過去を「過去」、現在的な過去を「既在」と言う。現在的とは、存在の未決定性と関係あるということだ。存在のうち現存在とは、内省的な(物事を深く顧みる)意識ある存在である。現存在が、存在に、存在する理由または目的、あるいは本質を与えて存在者とすることを、「現成化」と言う。
大乗仏教では、「心(識 しき)」を因として、仏性を縁とすれば、現象界の万物が救済仏、仏の仮の姿であり得る、そのためにはアラヤー識を浄化すべしということだ。この部分が、浄土真宗では、悪しき故に不浄の自覚をもって阿弥陀仏の本願力で救済される、であるから、人間(衆生)とは、「現存在(自力疑心)」→「存在(不浄の自覚)」→「存在者(救済される魂)」ということになる。ここで現存在のうちは様々な物事が「既在」であるが、存在者の時間においてはアラヤー識を除いて「過去」ということになる、なぜなら救済される魂とは阿弥陀仏による救済が唯一の目的であり、本質にあたるからである。
※下の参考:西田幾多郎『善の研究』より「私と汝」
私(I)と汝(you)は互いに限定しあう関係性であるから、絶対の非連続であるとは、私からみた汝(存在)は限定された汝(存在者)であり、汝からみた私(存在)は限定された私(存在者)である。「自覚的限定」とは、私からみた私(存在)は私(存在者)であるが、これを汝(存在者)と見る、そして、汝からみた汝(存在)は汝(存在者)であるが、これを私(存在者)と見る、このようにして、私と汝を結合することが、非連続の連続であり、成せる業は「真の愛」である。今日の私からみた昨日の私(存在)は昨日の私(存在者)であるが、これを今日の私(存在者)と見る、これが「個人的自覚」である。
ここで、もしも阿弥陀仏の救済とは、ここでいう「真の愛」と同一であるならば、衆生は自己の中に阿弥陀仏を認める必要がある。つまり自分自身もまた衆生を救済する使命をもった魂であることを阿弥陀仏と認め合うということになる。
ツヨシは、平凡な中学生だった。喧嘩が強いわけでもないが、いじめられるわけでもない。言い返すタイプの少年だった。ただ二歳上に姉がいて、中一の頃から人脈はあった。もしかしたら快活な少年に見えたのかもしれない。
告白されてしまった。学年で一番勉強のできる女子に。他人が嫌がることを言わない、それがきっかけだと言う。ツヨシなりに一番気を付けていたことを好きになってくれた。
ツヨシは勉強をするようになった。理由は少しでも恐怖とたたかいたかったからだ。彼女は、親でも見落とすようなことを、先回りして、ああしたらいい、こうしたらいいと言う。それも非常に手短な言葉で言う。人間というものを、悪く言えば感じ取れない、そのような日本語のやりとりがたまにあって恐怖だった。
ツヨシは、自分の役割は習うことなくわかった。彼女が同じような口調で男子に物申してしまって、危ないと思った、しかし嫉妬心もかなりあって、止めに入ることはできたが、後で電話で口喧嘩をしてしまった。
しかし、ツヨシは日頃、「なぜそこまで有難いのか。」と彼女の言動に感謝するようになっていった。「俺なんかが、俺なんかが。」と言いながら必死で勉強して高校は県下有数の男子校に入った。入ることができた。
高校で出会った友達に対しては、第一印象、すごく嫌な言い方だが、「違う動物の群れに混じった。」と思った。まず5㎞のジョギングが速い、部活ではなく体育の授業で、である。1500m走もクラスで最下位だった。
早い話、勉強についていけなかったツヨシは、別れてしまった。同じ年の10月、ある日、なにもかも壊れるくらい怒ってしまった。彼女のほうは、その後何度か連絡を試みたと後で知った。
クラスメイトの国松が、しばらくしてカラオケに誘ってくれた。
「俺が行くんだから、可愛い子が来るんだろうな。」
とツヨシは言った。ツヨシはくだらない人間にでもなったつもりだった。
「田中君は三股までかけたことがあるから、良くも悪くも君付けされちゃってるんだからね。」
と悪ふざけの口調で返された。田中は背が高く、体重も70㎏あるが端正な顔立ちのイケメンだ。10月に入っても仲間から君付けされている変わった人だ。成績は真ん中くらいなのか悪いのか、よくわからない。
当日の集合場所で、田中に言われた。
「あの真ん中の背が高めのヒョロっとした子が気に入ってくれてるから、俺からの命令として、今日ちゃんとやれ。」
あとで確信するのだが、ツヨシは、田中からは親しまれていた。そういえばツヨシ目掛けて歩いて来られて、話しかけられたことが何回かある。成績最下位のツヨシは、クラスメイトにとってある意味希望だった。この半年間、同じ苦しみの生徒もそうだが、そこまで下を見て喜んでいるわけでもないが、とにかく希望だった。「ツヨシ君には彼女がいる。僕にも彼女が欲しい。」と安易な希望を抱くための客体だった。そして、ツヨシがフラれた話は、「星の消滅」だったのである。
真ん中の女子はチヒロという子だった。栗色のロングヘアで、ツヨシをすでにじっと見ていた。ツヨシは、田中の「ちゃんとやれ。」を信じ切った様子で、
「可愛いじゃん。」
と言い、前カノと付き合っていた杵柄もある、自分はできる、今日は楽しませてもらおうと思った。ツヨシは、一年以上、前の彼女と仲良くやってこれたものだから、行儀作法というべきか、接し方を知ってはいた。そういう意味合いの経験値のある接し方、で、留めればいいものの、どんどん悪乗り、悪ふざけをしてしまい、抑えがきかなくなり、「もう、付き合っている」かのような態度にも差し掛かってきた。そのようなツヨシの挙動に、田中は、「今後考え物だ。」と思ったが、男子らの結論は「封印」というものだった。
二時間の遊びが終わるころ、チヒロだけトイレに立つと、さすがに周囲に目をやるツヨシに、国松がジェスチャーで「行け。行け。」と言う。ツヨシが後を追って廊下に出ると、チヒロが廊下で立っていた。直立した姿が綺麗だなと思う、ツヨシ。うつむいて、壁に寄りかかっているのか、いないのか、というチヒロ。二人でしばし無言になってしまった。ツヨシはチヒロを見ているが、チヒロは床なのか、壁なのかわからない位置を見てじっとしている。「トイレ。」と言って出て行ったが、涙ぐんでいるのか、いないのか、というチヒロ。
「ほらっ。」
ツヨシは、少しひきつった笑顔で携帯電話を取り出す。
「メールアドレスを交換しよう。」
と言いながら、つい先日まで前の彼女のツーショットプリクラが貼ってあった携帯電話を、差し出すように、見せた。あまりにも無残な数ミリのはがしそこないも気にせず。チヒロは、無言でうなづくと、気の利いたことも言えない自分を、あとからじわりじわりと責めながら、しかしプリクラの無残なはがしそこないには、笑いがあとからじわりじわりとこみあげてきて、
にかっ
と、自分の携帯電話をポケットから出すとき、笑ってしまった。
二人は12月に、初めて手袋越しに手をつないだ。一瞬ふざけて笑ったら、そのままグイっと腕を抱えられてしまって、ツヨシのほうが「痛い。」と言う。ピンクのマフラーが肌色をしているチヒロが綺麗だ。
ツヨシは、抱きしめたいと思った。
「『雪が降ったらいいな』のおまじない。」
そう言って、グッと意気込むと、チヒロは感づいたように、はっとした。ツヨシは、思わずコートの端っこを握りこんでしまった。すると少し沈黙してから、チヒロは言った。
「大人になってく。」
ツヨシは、ボケっとチヒロのへそのあたりを見ていた。チヒロは、
「大人になってく。」
ともう一度言うと、嬉しそうに笑ったまま、
ぺんっ
と、コートの端をつかんだツヨシの手を、体ごと旋回して弾いた。思ったより、勢いがついてしまった。ツヨシは、一瞬、氷漬けにされたように「ひやっ」とした。してしまった。重く冷たい氷が急に背後に現れた気がして、勢いのまま、チヒロを、
ぎゅっと、抱きしめた。
チヒロは、初めて男子の体温と、思ったよりずっと固い骨を感じた。ツヨシは、チヒロの、もっとずっと友達のようにいたい気持ちのほうを、そうと知ってか知らずか、固く抱きしめたのだった。振りほどくように唇を重ねたのはチヒロからだった。
ツヨシは、
「背が高いですね。ピンクのマフラーも、また着ていただけたら、わたくしは何度でも美しいと言って見せましょう。」
と、かしこまって言った。
チヒロは笑った。笑って、気恥ずかしそうにしていたら。チヒロの携帯電話がマナーモードで鳴り始めたので、また、にかっと笑って、言った。
「雪が降ったら何するの。」
ツヨシは、
「好きだよって、しっかり、言ってみたい。」
と言う。
チヒロは、キョトーンとして、半分はわざと、
「好きだよ。」
とそのままの顔で言った。
(おしまい)
筆者が精神科に入院していた頃、同じ入院患者で16歳の女性がいた。筆者は毎日、その女性のお尻を眺めていた。「そろそろ周りがその事実をあの子に伝えそうだな。」と思ったあたりで、思ったのは、「どうしてですか。」と尋ねられたら、「社会の一員にしようと思った。」と答えて笑いを誘ったらいいと考えるにあたって、「これをやっているのか。」と言うことだ。やっているのは、性欲の業だが、思考回路はこういうことなのではないだろうか。セクシャルハラスメントである。
しかしこの、いけないことをする側の「性」で生まれたら、考え方くらいわかっていないと、批判家の言うことの意味がわからないのも、どうしてだろうなと思う。セクハラ批判が、男性批判を通り越して、男性社会批判という転覆構想に発展する理由が、いまわかった筆者は、それこそ以前であれば、「女性のする男性批判はセクハラなど人間的にアウトな事例ばかりで知的なものがない。『あの人は人間として尊敬できるが合理的過ぎて悪い意味で男性的だ』のようなことを誰も言わないのは何故だ。」と悩んだりしていた。しかし、筆者は大卒者であれば年齢的に悪戯の対象でないだけだったし、社会のせいにしたのは男性のほうだった。
「陣痛は男性だと死んでしまう」は、方便でも絶対に伝承を絶やしてはいけない言葉だと思う。筆者は、筆者なりに女性性の普遍的定義として理解して以来、「女性を守らなければ男性に生まれた意味がない。」に始まり、「男性社会は男性の都合ではない。」を経ても、「男性は身代わりになれない。」を見失ったことはない。しかしながら、男性が、あるいは一部の男性が、女性を裸体で考えることは、対女性という意味合いで彼らなりの回避性である。女性のやることや考えることへ「精神の理解」を示そうとすることは男性にとって苦痛を伴う。それであったら、「女の裸は好きだが、女性は嫌いだ。」としてしまうほうが、よっぽど社会適応的な者もいる。もっと言えば、女性を性対象とだけ視ることで、それに相応しい男性性や力強さ(マスキュラリティ)を自分自身のものとなるよう手に入れることで、「男性は男性になる」ほうが現実的でもある。
筆者は、人一倍恥ずかしがらないタイプだ。歌を歌い聴かせたり、書いたものを読ませたりすることは通常人は恥ずかしいと思いやらないことだ。ただそういうTPOでやるぶんには構わないだろうと思う。カラオケボックスでは歌うし、ブログは書いている。だからだと思うが、無言の抗議のような、自分自身に対する集団的自衛行為にはてんで疎い、気がつくのが遅いタイプだ。「相手を子どもだと思う人は子供だ。」という命題を二十歳のときに聴いたときも、あまり意味がわからなかった。ただスポーツチームのように持ち場をひたすら守っていればトラブルなんて起きないのに、なんでわざわざ揉めるんだという考え方のほうが妙にオーバーラップしてあった。与えられた役割をはみだしてくる者のほうが悪いに決まっているだろうと思っていた。しかし、例えていうなら50M走が8秒台の者や身長130cmの者ともサッカーをしなければならない現実世界で、コミュニケーションとは筆者の想像を超えて必要になるものなのだと、最近分かってきた。その結果、社会集団とは一人ひとりでは伺い知れない別の意識をもった「有機体」としての性格を帯びる。5,6人の集団にもなると、集団そのものが生命体のように生きているという感覚、それが最近判然としてきた。集団から排除されたり、自分が除外されそうになっているときは、単一の、または複数の、あるいは過半数の個人ではなく、「有機体」のほうを怒らせてしまっていると考えると、少しは納得がいくものだ。
筆者は、自分はもう何かあると大声をあげたり、叩いたりする人になったほうが、めぐりめぐって周囲のためなのかと言う所まで陥ったことがある。そうやって距離をつくって集団に混じるほうが周りも間違えないのではないかと思った。そう思っていたら、たまたま点いていたテレビがCMのテーマソングを歌っていた。カラオケで歌ったら盛り上がりそうな曲だ。そこではっとしたのは、歌を歌っている自分が他者から好かれるのも、その一方で『アリとキリギリス』などという否定があるのも、結局自分がその時抱えていた問題が社会に存在することや、それを合理的に処理できないことを自分が患っているからだと思えた。
結論から言うと筆者は、形成されたコモンセンスにフリーライドしているのである。思い起こしてみれば「何故自分ばかりこんな目に遭うのか。」という状況に陥ったときは、常々、コモンセンスにフリーライドしていたと思う。ここでいうコモンセンスとは、社会全体の常識もそうだし、何かその部分的なものもそうだ、それこそ人を集めた集団で一定期間メンバーを変えなければ、生じてくる話のことである。他者と会話をするというコモンセンスの空間で会話をしない者は、会話によってやっと形成される様々なものが、無償で提供されているに等しかったのである。会話に限らず、大抵の仕事が、一人くらいさぼる人(逆をやる人)がいても誰もなんとも思わないのである。ただ先述の「有機体」のほうが刻一刻と腹を立てているのである。公共財ゲームというゲーム論の分野は社会的ジレンマという現実の問題に取り組んでいるが、既にこう言うことを言った者は確実にいると思った、つまりある社会的ジレンマ状況に陥るかどうかは先述の「有機体」とコモンセンスが未だに生み出されていないような認知未形成状態が前提にあるということだ。アナキズムの研究なのである。