違うなら違うし違うんじゃないの

おしりファルコンは元大リーガーのイチローさん(鈴木一郎)を引き合いに出す発言が多い。これについて、「彼は自分がイチローに匹敵するとAの観点から思っている、しかしBの観点から大きく劣っていることに気づいていない、イチローさんに失礼だし、真に受けた青少年らは可哀想だ。」というコメントをした高校教諭がいた。冗談めかして「ファーストゴロの打ち方を追求しているうちに本当にそのようなレベルに衰えた」、その裏では大学生に向かって「野球ヲタク以下だ」など目に余ると言う。基本的に学校教諭とは、教室の統制のために「デタラメ」なことを言い続けなければならない。おしりファルコンのような大人になるなとは正論に違いないから、一般青少年に向けて発信するのは仕事の範疇として、いかにその考え方を免罪符にしているかは周知の事実である。

違うなら違うし違うんじゃないの。イチローさんに匹敵しないのであれば、匹敵しないと思うし、実際問題匹敵しないんじゃないんですか。本当の正解を言うと、こういうリアクション、特に「誰もそんなこと言っていないだろう」と顔を赤くして反撃すれば、「従順」、「教員に対して素直」という評価を教員側で採点する、「だけ」、である。

高校教諭に逆らいたかったらメタ的にいかなければならない。筆者も高1のとき、「千円で買える個性で満足する人間になるな」という一行と共に染髪(茶髪)を咎められたことがある。担任からである。件の一行が一切納得がいかなかったため、筆者だけ黒髪に戻さず一週間登校してみせた。結局、担任とは口論の末、「命令として黒髪に戻せ」と言われたので、ハッキリ言って差し上げた、「結局それだけの話なら最初からそう言って欲しかった。」。一人の人間として、コミュニケーションをとりたいのであれば、もちろん構わないが、教員というパワーバランスで強制されるのは苦痛でしかないことを、「イイセンセイ」は知っておいて欲しいと切に思う。

何事も社会勉強だと言ってしまえば、間違った人間にも頭を下げなければいけない、しかし先述の通り高校教諭がいかにその考え方を免罪符にしているかは周知の事実である。大人を養成していると言ってしまえば、間違えて構わないのである、大学教員になるとさらに酷くなるが、もはや青少年育成などという公儀公論自体を放棄してくれているので、鬱陶しくはない、ただ提供しているものの正当性は更に劣悪になる。そんな自分たちの至らなさに詳しければ、オソライソ編入学院が高等教育機関に匹敵したがっていることにしてこき下ろせるものだ。しかし、違うなら違うし違うんじゃないの。

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