投稿者「ひまわりちゃん」のアーカイブ

例外処理ほど高偏差値の学習項目だという実態

受動態では動作主(能動形にした場合の主語=名詞)の前に置く前置詞に、用例として”by”が多く用いられる。その一方で、たとえば”be known to ~”とは「知られている」という意味の受動態であるが、”by”以外の前置詞をつかう受動態も数多く存在し、比較的偏差値の高い生徒になるほど、しっかりと暗記を「させられる」。

偏差値60が、およそ全体上位17%にはいる学力であるから、彼らは正解率20%程度の問題の「できる/できない」が腕の見せ所なのである。偏差値50の生徒であれば、「あー、そういうの面倒くさいしー、やらないんだよねー」と言ってはぐらかす学習項目ばかりを、丁寧に拾っていく勉強法になってくるものだ。中学数学(≒高校受験数学)のほうが、このあたりはわかりやすいかもしれない。埼玉県の公立高校入試(といっても筆者がフォローしていたのは数年前まで)で、数学は小問集合(大問1)を全部解くことが偏差値50(数学)の切符なのである。典型的な内容を正しく理解したうえで最低限の応用力があればすべて解ける問題(大問1の小問集合)が、実際に偏差値50の分水嶺として設置されているようなものだ。

もっと与太話をすると、数学は、数学という科目の学問的体質から当然であるが、応用力の優れた学生であれば本当に基本的なことさえ覚えていれば解けてしまう問題が多々ある。何が言いたいかと言うと、偏差値の割に数学は得意だが英語は苦手だという生徒は100%、例外処理という処理機構が弱い生徒である。多くの問題を処理できる急所のような内容ばかり抑えたがるから、by以外の前置詞をつかう受動態と言われたときに、彼らは直感的に重大な学習項目だと認識できないことがある。逆に、例外処理を覚えることに長けた生徒も多く、高校受験は甘んじた結果になったものの、大学受験で有名私大生に返り咲く人は多い。

高校に入ると偏差値が10落ちる。偏差値70の高校に通う生徒は、超大雑把に言うと、偏差値60の大学に通う学生になる。偏差値70の中学生の勉強法は、中学受験の貯金の食いつぶしや、我武者羅な勉強法の根性論であったりすることが、珍しくない。少なくとも、公立高校入試ごとき満点を狙っていく中学生だった彼らにとっては、偏差値60の生徒(正解率20%に敏感になること)を三年間やらされるということが、もはや全く新しいスポーツの「はず」なのである。大学一般入試が上手くいかない、変な話三年間まったく機微機転のわからなかったひととは、そのようなケースも多々あるのである。

中間層学生

高1の春に「東大完全攻略数学」のような難関校本番対策の参考書に手が伸びる高校生。最終到達地点を見てみたい、「見る」という動作をしてみたいと思うのは自然なことだ。しかし、教員・教諭という立場の人間でこれを是とする者は、彼らのすべてではない。少年野球の児童にプロ野球の試合を見せてみる感覚で絶対的に必要なことだとする教員もいれば、全く現実のわからない一定数を生み出して終わると否定する教員もいる。

志望校合格とは、現実的実現の目標である。大人として目標に対して正しいマイルストーンを置くことは、全ての大人がおこなう。たとえばスポーツクラブの会員制サイトを製造するITベンダーはガントチャートと呼ばれるもので工程を細かくスケジュールにしてある。しかし東大に行くような高校生に、「君たちが眼中にないような連中が大人になったときにやる仕事」の話をしても、ほとんどの者が困るのである。何が言いたいかといえば、君たちはまだまだ人間として、公立の小学校、中学校で、どんな馬鹿馬鹿しいヤツらだとしても同じ教室で画一的に学んでいたようなものの、残りが、あるんだよ、ということだ。

東京大学や、それに準じる一流高等教育機関が、「〇〇は▼▼」と言ったときに、それを真実として拝受する者は大勢いるのである。しかしそれは、「東大完全攻略数学」のような参考書をある種頂点に君臨させながら妄想するヒエラルキーの病理、その具体的な陽性反応なのである。高学歴は偉い、高学歴の言う事は正しい、という考え方が、「自分ごときのために処方されたクスリだ」と思える人は全く少なくない。しかし、それが当たり前のことだというのであれば、全く現実がわかっていない。どういうことかと言うと、Aランク大学に全く用のないものの、現実的に自分のレベルに見合った大学があって、そのルートの人生を真面目に生きていく予定の人間は、たとえば東大完全攻略数学という参考書に対しては「なにか神聖なもの」というレッテルを貼って終わりである。自分が直面する現実的な課題を解決してくれさえすれば構わない人間を現実主義者と言うべきかはわからないが、逆に全く賢くない「よくわからないが□□を■■だと思っていると上手くいくんだよね」という人間と、上述のような一流の発言に真剣に感化される必要のある人間の間に、現実主義的な意味で賢くあるべき人間は確かに存在しているのである。