ボードゲーム説

すべての人間は大なり小なり、規定の範囲内であれば賢い。大なり小なり賢いのではなく、基本的に賢くて、規定の範囲に大小がある。ババ抜きで勝ったら銃が出た。クチも利かずに勝つからだ。納得がなければ限界まであるのは当然だ。そんなことを言う人間に限って、気が狂ったように、「デートをしたのだから、別れるならキチンと筋を通していかないか。」と顔を真っ赤にすることもある。結局、みんな、毎度なにかしらボードゲームのように括った範囲内で頭を使っているし、そのボードを叩き割られるようなことをされると困るのである。別の考え方をすれば、そのボードの大きさ、ここでは大きさという日本語を用いるが、それについて妥結できていることが合理的な交渉に違いないのだが、そんなことを一からやること自体が、メタ的な意味合いになるのだろうか、その手の妥結に他ならない、言葉遊びがしたいのではない。結局みんな、自分の得意なボードに相手を引きずり込んで上手いことやりたいなと、思うものなのである。

しかし安穏と暮らしていける範囲内とは、むしろそのような「ボードゲーム説」の意味がわからないような集団のことを言うと筆者は思う。どういうことかと言うと、実際前段落の話が聞くに堪えなかったひとはかなりいると思っている。そんなことを考えていたくないと言うか、率直に「気持ちが悪いだろう」、別に相手のボードを叩き割るつもりなどなく、納得がいかなければ教えて欲しいし、負けでいいやという感覚も誰しもが養っているものではある。しかしそれは上で述べた「ボードゲーム説」が、穏やかに実行されているだけで、一応、意味もなく闘ってはいるのである。安穏と暮らしていける範囲内とは、そもそもボードゲームが一切行われない集団の範囲だろう。機能不全家族とは、家族間で経済的な利益、不利益の折衝があるのは当然として猜疑心が横行しているような家族である。そうではない家族(機能家族)とは、典型的な安穏と暮らしていける範囲である。

勝てるゲームをしたい。冷静に考えれば、ボードの大きさを自分で決めることができるのであれば、直感的極論として絶対に負けはないだろう(そいつの頭の中で)。しかし冒頭ではあのように述べたが現実に賢い、賢くないは確かに存在して、相手のボードゲームを受け入れたうえで勝ち始める人間もいるのである。喩えて言うならクモの巣をテンテンテンテン…とクモのように歩いては食肉に長けた生き物なのだ。住んでいたクモの御機嫌も構わず、その巣で暮らし始めるオオキナモノなのである。上がり込む、上がり込まれる、上がり込んでしまうということがあるのである。それが、「安穏と暮らしていける」という願いを奪い去っていくのである。

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