中間層学生

高1の春に「東大完全攻略数学」のような難関校本番対策の参考書に手が伸びる高校生。最終到達地点を見てみたい、「見る」という動作をしてみたいと思うのは自然なことだ。しかし、教員・教諭という立場の人間でこれを是とする者は、彼らのすべてではない。少年野球の児童にプロ野球の試合を見せてみる感覚で絶対的に必要なことだとする教員もいれば、全く現実のわからない一定数を生み出して終わると否定する教員もいる。

志望校合格とは、現実的実現の目標である。大人として目標に対して正しいマイルストーンを置くことは、全ての大人がおこなう。たとえばスポーツクラブの会員制サイトを製造するITベンダーはガントチャートと呼ばれるもので工程を細かくスケジュールにしてある。しかし東大に行くような高校生に、「君たちが眼中にないような連中が大人になったときにやる仕事」の話をしても、ほとんどの者が困るのである。何が言いたいかといえば、君たちはまだまだ人間として、公立の小学校、中学校で、どんな馬鹿馬鹿しいヤツらだとしても同じ教室で画一的に学んでいたようなものの、残りが、あるんだよ、ということだ。

東京大学や、それに準じる一流高等教育機関が、「〇〇は▼▼」と言ったときに、それを真実として拝受する者は大勢いるのである。しかしそれは、「東大完全攻略数学」のような参考書をある種頂点に君臨させながら妄想するヒエラルキーの病理、その具体的な陽性反応なのである。高学歴は偉い、高学歴の言う事は正しい、という考え方が、「自分ごときのために処方されたクスリだ」と思える人は全く少なくない。しかし、それが当たり前のことだというのであれば、全く現実がわかっていない。どういうことかと言うと、Aランク大学に全く用のないものの、現実的に自分のレベルに見合った大学があって、そのルートの人生を真面目に生きていく予定の人間は、たとえば東大完全攻略数学という参考書に対しては「なにか神聖なもの」というレッテルを貼って終わりである。自分が直面する現実的な課題を解決してくれさえすれば構わない人間を現実主義者と言うべきかはわからないが、逆に全く賢くない「よくわからないが□□を■■だと思っていると上手くいくんだよね」という人間と、上述のような一流の発言に真剣に感化される必要のある人間の間に、現実主義的な意味で賢くあるべき人間は確かに存在しているのである。

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