代表(管理者):藤倉崇晃
入学試験という競争的環境なるも、そこで、すべての受験生が自己の実力を存分に発揮するにあたり、編入学試験に関する真実性の高い情報を、たとえば経済的余裕を条件とせず、平等に手に入れられる環境を、彼らを真に見守るとはつまり、構築せよ。
脆弱性
「大学編入!文系の対策」と呼ばれるサイトが有力です。しかし、オープンコンテンツとして受験情報の無償提供は、様々なコメントも自由に貼り付けることができます。しかし、それらが親切にも当該サイトのコメント機能を媒介する保障も全くないわけです。良くも悪くもパーソナルコミュニケーションを通じてクチコミが拡散されることになってくるものです。特に「過去問題の解答例」に関しては、サイト上であってもリスクがあります。ある解答例の疑問点、改善点や意見が貼り付けられたときに読者が合理的に処理できるとは限りません。もしも間違った(誤った)知識でもって、それらが貼り付けられてしまったときは、素直に言われるがまま訂正すると不利益があるわけですから、難しい判断になるわけです。これらは、パーソナルコミュニケーションを媒介してしまった場合は、著者はリプライすら返せないわけです。これは明確な脆弱性です。「大学編入!文系の対策」は、編入学情報というマーケット全体を相手取った競争的圧力という意義があり、オープンな情報の無償提供をすることで、マーケット全体で配信情報のクオリティが高まるという公算があったようです。狙いとして、編入学世界における情弱ビジネス(情報リテラシの低い者を狙った悪徳商法)の駆逐が目論まれていました。
排撃
学術研究者とは、端的に言えば自分自身が苦心して見つけた惑星を「自分の名前」で名づける人びとです。そういう仕事を生業とする人びとなのですね。彼らの価値観とは、「名誉」なのですが、死後語り継がれることに挑むひとがいます。ここで言いたいのは、「それが高潔か?」という難問ではなく、つまり学者とは、「死して屍」に大なり小なり重きを置いて生きているところがあるわけです。たとえば日本型雇用慣行の崩壊とは、「50代問題」を指す論者もいれば、「整理解雇」を指す論者もいるわけです。Aという問題はaだ、「A=a」と言ったとしても、実際には「A=b」と考える大勢が存在するわけです。そのような空間において、議論テーマとは別問題の人格攻撃などをおこなっていると、その排撃は学者の心身は当然として、彼らの功績、あるいは功績に満たないインサイトに対する、「『学術上の排撃』とみなされること」は不可避なものなのです。そうでなくても、異論者同士で互いを排撃しないと考えることは、ややもすると「それが高潔か?」という難問にも差し掛かってくるわけです。
偶像崇拝
教員を中傷する生徒。中学高校と当たり前のように存在する。教える立場の人間と信頼関係にあるほうが、学力を伸ばすうえでは有利だと思う。しかし、教科書、参考書の内容が標準化され、出題に対応する正答が一問一答であれば、そのような問題が多ければ多いほど、あまり教員の実力では生徒の学力に差がつかない。地味な反復練習が可能であればあるほど、生徒の勤勉さ(地味な反復練習に腐心する精神)がシンプルにものを言い始めるからだ。別の言い方をすれば、さらに極端な言い方をすれば、教員を好きになってあげる必要などどこにもないのである。空想めいてしまうが、地味な反復練習では劣後する学生を救済しようと思ったのならば、つまり実力以上の学力を与えようと思えば、その逆をやればよいのである。アイドルのように自分を好きになってもらう。そして、独自に規格化したテキストで教え込む。この二つでもって地味な反復練習では劣後する学生の学力を伸ばすことができる。「大学編入!文系の対策」で、アイドルのような「可愛い女の子のイラスト」が大量に貼られている事実について、一面的な解釈をすれば、つまり偶像崇拝なのである。これが内容に関して「学術上の利害関係」にある者や、そのような手法を「破壊カルト」として根本的に嫌っている者や、特に大学教育の中庭に限って許されざることだと言う者にとっては、破壊すべき「間違った仏像」なのである。
攻撃する者へ
創造的文化的価値の破壊。著作物を破壊する感覚的価値観は、稚拙で、誰しもが馬鹿のやることだと知っている。そのような事象が相次げば「哀しい」と感じることができる。しかし、みせびらかし、嫉妬心や憎悪から、創造的文化的価値が破壊されてしまった哀しい事件を、生きていればいつかは体験する。なぜ、あのような丹精込めた作品が、作家の心を踏みにじりながら破壊されてしまうのだろうか。気持ちの整理と共に、哀しい体験が、事の顛末として、いつか処理される。もちろん事件の加害者こそ受け入れられたものではない。しかし、第三者的目線で哀しい事件に遭遇してしまう現実は、思考のルーチンに組み込まれる。展示し続ければ、いつか心無い誰かが壊す。そして思考ルーチンは、必要に応じて自分自身によって保護される。創造的文化的価値を、思考ルーチンを保護する目的で破壊するとは、稚拙な人間のやることとは限らない。著作とはいずれ破壊される。しかし未だ幼稚な暴力で傷つけられずにいる。その状態が長続きすることは、次第に人びとの思考ルーチンとバッティングし、彼らにて違和感を覚えるのである。