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雑な記事

芸術

ピカソの《夢》 (https://www.musey.net/1471/1472)は、筆者が一番好きな絵画だ。描かれている女性の魔力に魅せられて以来、絵画と言えば、ピカソの《夢》である。知人に「(冗談めかして)ピカソは本当に守りたい女性を描いたんだと思うよ。」などと言ったことがあるが、描かれているモデルの女性(マリー・テレーゼ)は三年後に娘マイアの母になった人物だと、後で本で知った。また、女性の右半身は勃起したピカソの男性器のメタファーだと言う。それで右肩が盛り上がっていて、女性の率直な妖艶さに重ねたのだという理解が、本に載っていた。

ルネサンスは「自我の能動」であり、芸術とはルソー(1712~1778)をして「自由」だと言う。ピカソも、自我を能動的に、絵画を描いていた。芸術作品の中に哲学的な価値観を見出してしまうようでは、画家の世界観の住人になったに過ぎないのだろう、筆者はピカソの絵が好きすぎるようだ。

平和

聡明な若者の中には自分の心身の指針にすべく客観主義的な価値に傾倒してみせる者も少なくない。一昔前のシールズのような平和主義に傾倒した若者など、まさに客観主義的な価値に傾倒した聡明な若者の集まりだ。しかし、客観主義的価値には一定の権威性があることは事実だと思う。もちろん筆者も、平和を愛している。ただ、若者が自分の心身をまもるために自分自身傾倒した価値を守るということであれば、意味合いが変わってくるだろう。彼らが守りたいのは自分自身だし、彼らが愛しているのは平和を愛している自分である。客観主義的な価値とは、つまり「Aさんにとって価値があるが、Bさんにとって価値がない」という対立がない価値ということになる。それは、大勢の人物の「YES(価値があります)」を学習したり、「叩かれたくない」、「悪口を言われたくない」など物事の類似性から「失いたくない」という概念を導き出したりすることで、それは客観主義的価値だという考え方になる。普遍的な平和というものが見えてこなくても、「誰も何も失わない時間」というものの価値は、「平和」として、客観的だ、ということになる。ただし、客観主義的な価値とは、たとえばここで言う「平和」とは、平和という普遍的な本質があるとは限らない。

唯名論をひくとわかりやすく説明できる。「コップ」と言われれば何を指しているのかわかる日常の場面は多いが、「コップ」は名称であって、コップという普遍的な本質があるわけではない。コップには、現代哲学で言うと容器という実体があるが、「容器」にしたってそこに名付けられた名称に過ぎないと言うことだ。容器とひとまとめにするような個別の物体(個物)がどんなにたくさんあっても、それらをひとまとめにして「容器」と呼んでいるに過ぎないと言う。これが唯名論である。

※下記は唯名論ではない、筆者の論述である。

赤いコップ(正)

→赤でないコップ(反)

→コップ(合)

コップである容器(正)

→コップでない容器(反)

→容器(合)

弁証法を用いたが、赤いコップには、赤いコップ、コップ、容器という三つの実体がある。対象が赤いコップであれば、話し手が「赤いコップ」と言った際、聞き手は「容器」と受け取ることがあるし、話し手が「容器」と言った際、聞き手は「コップ」と受け取ることがある。「平和」についても同様で、話し手が「平和」と言った際に、平和を実体としてもつ個物的なものの集合と、そして平和が実体とする個物的なものの集合の、和集合の中から何かが選ばれて聞き手に受け取られるのである。社会主義国が思い描く平和かもしれないし、核兵器がないことかもしれないのである。

活動とは、活動理念の絵画さながら、その活動理念を考える者の自我の能動であって、たとえばコップと言いながら花瓶の絵を描いたら、要するに容器という意味だったのねとなってしまうのである。筆者がシールズに見出したものは、筆者が残念なのか、または彼らが残念なのか、あるいは両者が残念なのかわからないが、「平和主義も権威性を帯びるのだな。」という認識であったのだ。

理性

羽をもがれた蝶にも生命があり、死するまでの間に活路と彼女なりの哲学が勃興するのです。しかし死刑とは、その場で魂を処断することになります。死刑は憎しみを肯定し、許さなくてよいと命じているのです。

筆者は、死刑に反対である。理由は、上記の通りである。ヘーゲル(1770~1831)の主張とは、「法とは個人と国家との整合的な理性である」という結論を導出できるものだ。法に、いずれも、もう片方に先行するところはないという。あえて全く対立するフーコー(1926~1984)の「理性は歴史の過程の産物である」をここで援用すると、死刑こそ最も整合的な理性になりかねない。そこはヘーゲルとフーコーが全く対立しているからこそ、そのようなエラーを弾き出してしまうのだろう。では、ヘーゲルの言う理性とは、プラトンのイデア論のように普遍的なのか、デューイ(1859~1952)の道具主義的プラグマティズムのように個別に具体的なのか、という悩みに直面する。まずヘーゲルの言う理性とは、社会制度なのであり、そしてプラトンの言う意味の「普遍」を継承する考え方だった。国家の普遍的意思を国民が洞察して一体となる、この整合性が国家の理性と国民の自由だった。つまり、法である。ここで、ヘーゲル自身にも良い法律と悪い法律とがあるという感覚があったように、死刑に賛成する者のほうに傾聴する日本は、ヘーゲルの意味で果たして理性的な良い法律であるとしているのだろうか。まず、国家の普遍的意思として「許さない」があって、それを国民が洞察して一体となっているのかということである。

ヘーゲルの理性とは、普遍的というよりは不動点的だと筆者は思う。もちろんヘーゲル自身が「普遍」を見出したのであれば、それを追従するのも全く悪くないものではある。ただ国家の普遍的意思のほうが普遍的に理性であるとは全く限らない現実で、ヘーゲルの指示しているものは啓蒙専制君主の擁護論ではないのかと思ってしまったりもした。

科学と善人

デカルト(1596~1650)は、演繹法、「絶対に確実な真理」から出発して理性による推論を重ねる科学の方法論を打ち立てる際、同時に帰納法の限界を指摘した。帰納法では常に反証があると言う。この二つの功績についてデカルトが前段階的に唱えたことが、「良識はこの世で最も公平に分配されたものである。」という言葉であり、真と偽とを区別する判断力や理性は、人びとが生まれつき具えている能力だと言う。うまく使えるかどうかだと言う。筆者はこの前段階的な述懐を、方法的懐疑、「疑え」、の大人物であるデカルトに敬意を表しながら「演繹法をもってして間違えることを予め擁護した。」と言ってしまいたい。デカルトの功績自体が循環論法であることは、デカルトの功績をさらに理性的に判断する「体系」の出現を待つべきだろうか、しかしデカルト自身が自分宛にそのような関わり方を辞めなかったと筆者は思う。

理論経済学の「モデル」という方法論は帰納法で導かれる問題意識を、演繹法で出迎えるという方法論である。たとえば「猫がネズミを追いかける」、その姿を三回も見たことがあるから、「正しい」という問題意識を持ったとして、

「肉食獣はネズミを追いかける」

「猫は肉食獣である」

「猫はネズミを追いかける」

と、演繹法で出迎えることができる。ここで出迎えた演繹的推論の部分を犬や虎にあてはめて予測に役立てることができる。

国によって政治や経済のシステムが異なっても、経済学の有用性がドメスティックなものとは限らないことに、帰納法の段階で国際的である必要は必ずしもない。たとえばケインズ(1883~1946)の有効需要の原理など、アメリカのニューケインジアンに受け継がれている。

ただ、デカルトの功績を、帰納法の「限界」と呼び合って、「否定」とは断じて言わないことは、彼の生きざまに一抹の誤解を生む。彼は、「二つの時計が同じ時刻を示しているのは『同じ歯車で合体しているからだ』と答えるだろう」という比喩に例えられるほど、もの言い草がはっきりしている人物だったからだ。

y が xの一次関数であれば、x = x1+ x2+ … +xn と分解して、各要素が(たとえばx1の値が判明するなどして)明らかになるにつれて、そのぶん y の値を知ることに近づいている。しかし、y が x の二次関数であれば、 x = x1+ x2+ … +xn と分解した段階で、

y = x1x1 +x1x2 + … +x1xn

+x2x1 +x2x2 + … +x2xn

+xnx1 +xnx2 + … xnxn

調べる必要のある項が増え、もしも、たとえば x1 だけ分からなかったら、結局 n個の項が不明で残存する。デカルトの方法論は非線形な客体に対しては複雑怪奇を堂々巡りしてしまうかもしれない。

オセロゲームの道具をつかって、石並べの遊びをする。縦横は異なる色(白か黒)で、斜めは同じ色(白か黒)で並べる遊びをすると、盤面の完成図は二通りになる。一人の人物にこの遊びをしてもらったときに、左上隅が「白」になる確率は全く予測ができないだろう。この予測困難さが、「変数を全部知らないからだ」とするものなのか、「変数を全部知っていたとしても予測困難だ」とするものなのかは、判断しきれないだろう。前者は、クローン人間やジグソーパズルのような意味合いの難問に「過ぎない」とする考え方であり、つまりデカルトの思想である。

デカルトは、「神」が存在して、その神の誠実さが、人間の明晰で判明な認識を保護していると考えた。神を見たことがない人でも、神がいると思っているのは、本当に神が存在して、そういう考えを持つことができると言う。

紀元前800年頃から紀元前500年頃にインドで流行した「ウパニシャッド」はバラモン教の経典であり、「梵我一如」の一元論であった。宇宙の根源である「梵」と人間の根源である「我」が同一同体であると言う。バラモン教の「輪廻」、「業」、「解脱」は釈尊も参考にしたものである。バラモン教は現代でも知識階級の間で哲理として生きている。ヒンズー教は民衆主教であり、バラモン教に原始的な通俗信仰が加わったものである。前500年頃にバラモン教の教義と現実の違いに目を向けた六師外道が精神(霊魂)と物質(肉体)との二元論を唱える。そのうちジャイナ教は禁欲主義の信仰である。釈尊は、バラモン教と六師外道の両方を参考にし「縁起」の概念を打ち立てた。縁起(因と縁によってすべてのものは生じている)という思想は、ナーガ・ルージュナの「空」、「無自性」によって明確に無元論となる

ナーガ・ルージュナの教えとして、万物に仏性がある。たとえば花は万物に含まれるから仏性がある。仏性とは「仏の本性」と通俗的に説かれる。ただし無自性である物質の花は、実体として仏になり得るのではなく、現象界、現世である「色」において、仏、救済仏の仮の姿であり得る。現象としてである。その縁によって、あり得るためには、ヴァスバンドゥの教えによれば「心(識 しき)」の「アラヤー識」を浄化すべしと言うことだ。

アラヤー識を浄化すべしとは大乗仏教(民衆を救済する仏教)の教えであり、日本の浄土真宗では、悪しき故に浄化できないことの「自覚」をもって阿弥陀仏の慈悲、他力の本願力によって救済されると説かれる。これを悪人正機と言う。

自覚には一次の自覚と高次の自覚とがあり、悪いことを悪いことだと自覚することが前者であり、そのようにしていても、いつまでも同じことの繰り返しだと自覚することが高次の自覚である。浄土真宗として「自覚」とは後者がより近い意味であるが、あくまで近い意味である。

悪人:悪いことだと知っていながら、悪いことをする。

凡夫:悪いことだと知っていたら、悪いことをしない。

善人:悪いことをせず、悪いことだと知っている。

悪人→凡夫が一次の自覚であり、善人→悪人が高次の自覚である。善人だと思っている者ですら往生するのだから、悪人なおもって往くとは、浄化に勤めることは前提として、しかしその行によらない救済である必要がある。行によりけりでは、どれだけの行が必要かとなり、救われない者が規定されてしまう。つまり一切衆生救済に反してしまう。

最近の低層労働者はインターネットで自虐を言う

ネットに書けば殺された00年代

我が家にインターネットがやってきたのは西暦2000年です。後に大学院博士課程学生になる中三の息子(筆者のこと)がいる家にインターネットがやってきました。要はそれくらいの資力のある家計にインターネットが普及したのが大体2000年で、そのあとインターネットの普及率は下がることがなく上昇を続けて、今では誰しもが携帯端末でインターネットをしているという認識であっているはずです。つまり低層に普及したんですね。00年代当時は、インターネットに過激なことを書くと、「なんすかあれ?」みたいにヤンチャな人が自宅まで悪戯しにくるのが、そっちが常識でした。「特定しますた!」とか言って、インターネットは「書くほうが悪い」という、いまとまったく逆の正義観があったんですね。NHKの特集で偉そうな若者が、「Twitterなんてやるやつは個人情報のプラカードを渋谷で掲げるくらい危険なことをしている」とかドヤ顔で言ってやがった。特に低層労働者の家計にインターネットが普及するのと、リーマンショックとが同時期に起きたせいで、00年代後半は、貧しい家の子が普通の家の子をインターネットで見つけては殺意を覚えた時代でした。刺し殺してやろうと思うんだろうな。だから「藤倉ってやつはいつか刺される」と思っている50歳代のオッサンとか、すっげーわかる、まだその時代を暮らしてんだろうなって。

国民総コメディアン社会

筆者はひそかに現代を「国民総コメディアン社会」と呼んでいます。発信する側になった人が増えに増えたんですよね。みんなやる側になった。良い時代だとしか思えない。正直、あの当時「狩る側」みたいだった奴全員生き埋めにしてからそういう社会をむかえたかったけど。でも今の世の中、彼らのような人種は生きにくいんじゃないかな。生まれつき、遺伝的に創造力が乏しいから藤倉みたいなやつぶっ殺したくなるわけだからさ。

星飛雄馬と左門豊作がLINE交換をしなさそうだということ

最近の甲子園球児は知り合い

スマートフォン時代の青少年である最近の甲子園球児は、やはりインターネットや携帯アプリで交流もあるんだろうな。中学時代からシニアやボーイズリーグで全国区だった選手も多いし、基本的に全国区の中学生は全国の高校で取り合いになりますからね。知り合いの輪は自然と出来上がるものでしょう。しかし2,30年前に比べると各段に球場で歯を見せるようになった。味方のプレーで嬉しそうにするだけでなく、相手のプレーに対してレスポンスするような笑いが増えたと思う。まるで御友達同士で野球を嗜んでいるような感覚である。念のためだが批判ではない。というか、これが批判にややもすると聞こえる人は相当な年配だと思う。この超情報化社会、そして少子化の時勢に楽しそうに野球なんかやっちゃっている青少年なんて、いまが一番楽しいくらいで丁度いいとしか思えないです(大丈夫ですよ)。

巨人の星で言うと星飛雄馬と左門豊作がLINE交換するようなものかな

でも星飛雄馬と左門豊作は、たとえスマートフォンユーザだったとしても二人でLINE交換とかしなさそうなんですよね。そう思った時に、「みんなで仲良くLINE交換して繋がろう」という社会の空気というか、ムードが出来上がっているのは見逃せない時代の変化だなと思います。もちろん星一徹が、携帯代の滞納でスマホを止められないか毎月心配するレベルの低所得者であることもあるんですが、それにしても星飛雄馬と左門豊作は性格からしてLINE交換しなさそうだなと言いたいんですね。そしてそういう性格の青少年に育つ土壌が無いし、もしも彼らのような青少年がいたら「絶滅したはずの恐竜」くらいに思われるんじゃないかな。

話が変わるがオタクに対してもかなり変わった

いまファミリーマートで対象商品を買うとウマ娘のクリアファイルが貰えるんですが、こういうのも時代の変化だなと思います。2,30年前は、ウマ娘などの女の子キャラクターがたくさん出てくるゲームで遊び倒している人がいたら「オタク」と言われて誰も相手にしなかったんですよね。クラスでもいじめられっ子のようにハブられます。それが10年くらい前から、たとえば高沢という名前の生徒がウマ娘の大ファンだったら、たとえば木村という名前の生徒が「いや高沢は馬主だから(笑)」と言いながら軽く輪に入れてあげるように時代が変化したんですよ。いまじゃ「いや高沢は馬主だから(笑)」みたいなフォローも要らなくなってきたみたいだなと思います。もちろんオタクという概念自体は存在して、ウマ娘のように流行っているものはOKみたいな認識があるんだろうな。

ε-δ論法をしらなくても合格できますよと神戸大学経済学部編入合格者が言う意味

ふざけてんじゃねぇ

関数の連続に関する問題は、大学以降全てε-δ論法を使って示します。関数の連続に関する問題は、国公立大学経済学部の編入学試験で頻出です。たとえば「関数f(x)が連続である⇔関数|f(x)|が連続である」を示せ、あるいは反例を挙げよ、と言う問題が過去に福島大学で出題されています。これをε-δ論法を使わずに何か答えのようなものを書いても不正解のはずです。しかしTwitterでは、神戸大学経済学部に合格しましたという人が「ε-δ論法を勉強しなくても合格できますよ。」と発言して広めているんですね。

俺も運転免許とったから今度教えてやるよ

合格した人の言う通りにすれば合格できる人は、かなり器用だと思いますね。ε-δ論法は知っておいた方がいいです。逆にε-δ論法を使って解こうとすれば、部分点が貰える可能性が高いです。数学の試験で正解(最終的な答えが整合的)でなければゼロ点になるのは医学部医学科くらいで、普通は数学の試験では部分点というものがあります。柔道の試合だって、攻めの姿勢があれば旗が上がります。それと同じです。ε-δ論法は正しい攻撃姿勢です。

ε-δ論法を知っていても最大10点しか取れない

しかし現実の編入学試験では、↑こっちの頭が無い受験生のほうがぶっちぎりに黄色信号ですね。純粋に勉強をしてきた受験生ほど強いですが、結局は点取りゲームを当日やるのだから、合格点を見繕うという感覚もかなり大切なんです。ε-δ論法は、わからない人には死ぬまでわからないものなので、諦めるのアリチュウノアリです。ただ勉強メニューの立案からして「試験はもうはじまっている」という受験生もかなり限界なひとだとは思います。しかしですよ、柔道の話をしましたけど、私の知り合いに180cm100kgの元柔道部がいて、中一の頃は特に抜きんでて大きかったから「練習の同級生が皆かけ逃げになっちゃって、つまらなかった。」と酒席で語ってくれたことがあります。どんな分野にも規格外の奴がいて、優秀な人のレッテルをさらっていくので、「そういう人種ではないから大変なんだぞ」という、要は現実がわかっているというのはいいことだと思います。

キャプテンパティシエ

夏の甲子園。
準々決勝で散った花巻巻東(はなまきまきひがし)高校の主将・持田権蔵(もちだごんぞう)。
プロ注目の高校生スラッガーだ。
チームメートが悔し泣きする中、父親ゆずりの強面の地顔でひときわ号泣していた。

「優勝しなきゃ、優勝しなきゃ意味ねぇんだ。俺たちの今までは意味ねぇんだ。本当に頑張ったから悔しいなんてサッカー部みたいなこと言わないでください。本当に頑張るなんて当たり前です。本当に頑張っても優勝しなきゃ意味ねぇんだ。さっきまで途中だった。うーん、どうしてだぁ。」

試合後のインタビューでも報道陣にそう答えた。

そんな持田権蔵はお菓子作りが趣味だ。
父親ゆずりの強面の地顔からは想像もつかないプリティなパフェをプロ顔負けに作って見せる。
秋葉原のメイドカフェのような台詞回しで部員に配るのが恒例だった。

はーい♡
皆さんお待ちかね!
クマさんが超絶プリティなイチゴプリンパフェ♪
人数分あるから食べちゃって欲しいな!

この日の夕方も宿舎でイチゴプリンパフェを作って配った。
悔し泣きから立ち直った部員たちをさらに励ましたのだ。

夜。
エースピッチャーの須藤(すどう)が持田に言った。どうしても言いたかった。
「はじめてお前のチョコレートパフェを食べてからずっと言いたかったんだけど、プロ注目のスラッガーの趣味がお菓子作りで秋葉原のメイドカフェを真似た台詞回しまであったら、ギャップ萌えで唯一無二の存在だとか狙ってやってるなら、流石にちょっとキモめ。」

持田は須藤に言った。
「それを言ったやつには絶対に教えているんだ。どうして俺がパフェを作るのか。」



いまから20年前。
持田権蔵の父親・持田蔵之介(くらのすけ)は、当時37歳、持病の精神疾患の悪化で入院した。
仕事はその前の年にクビになったきり。近所の建物に悪戯書きをしたり、公園の枯草に火をつけて遊んだり、それを警察署に通報しながら警察官に暴言を吐いたりした。
終いには家に警察官が押し入った。蔵之介は保護入院になった。

「社会は俺を理解してくれない。」

入院を理由に精神障碍者手帳が3級から2級に繰り上げられた蔵之介は、退院後に移った病院でデイケアに通いはじめた。

デイケアスタッフの前原(まえはら)は運動神経の悪くない蔵之介をフットサルに誘った。
「蔵之介さんの担当スタッフの前原です。どうでしょう、是非フットサルをやってみませんか。面白いですよ。」

蔵之介の参加する曜日のデイケアは、昼休憩をはさんで、午後はフットサルかお菓子作りのどちらかに参加して、社会復帰を意識しながら精神病や障害のリハビリをする。
蔵之介は前原の勧め通りに真面目にフットサルをした。
最初こそ真面目に参加した。
しかし二カ月が経ち、フットサルが目に見えて上達してきたタイミングで、暴言を吐いてしまった。

「上達なんて馬鹿バカしいことなんでしなくちゃいけないんだ。」

前原は聴くだけ聞いて、「よく打ち明けてくださいました。」と言うと、

「じゃあお菓子作りのほうに参加してみましょう。」

と言って、お菓子作りを勧めた。
蔵之介は、最初は真面目に参加していたが、やはり二カ月ほどすると暴言を吐いた。

「上達するのが嫌なんだ。馬鹿バカしい。仕事なんてできない奴の方が偉いのに、なんのために働くんだ。ふざけろ。」

前原は聴くだけ聞いて、「よく打ち明けてくださいました。」と言うと、

「顔色がどんどん良くなってきているなと思っていましたけれど、そんな風に悩んでいたのですね。気がつかないですみません。コンディションのよい日だけでも良いのでデイケアには来てください。フットサルでも、お菓子作りでも、よいので、好きな方に参加しましょう。自分の気持ち優先で大丈夫です。」

と言った。蔵之介は、聞いてくれた前原にお礼を言うと、その日は帰った。
そして自宅で思った。
「もう37歳なんだ。中学生がやるようなことをして喜んでいていいはずないんだ。」

蔵之介は、精神障碍者男性と理解者女性の婚活パーティに応募した。
なんとなく、自分を理解してくれるパートナーの女性がいればすべてが解決する気がしたからだ。
デイケアでも女性と話す機会はあったし、上手くやればいけるだろうと思った。強面だが不細工ではないし、いい結果になるだろうと思った。

何回か同じような街コンに参加し、蔵之介は、後に妻となる女性・智子(ともこ)と出会い、順調に交際し、結婚した。

結婚して一年経ち、無事社会復帰に至った蔵之介に智子は言った。
「ヤクザみたいな人かと思ったけれど、趣味の欄に『お菓子作りができる』って書いてあったから、大丈夫だって思ったのよ。」



すべてを語り終えた持田権蔵は、須藤に言った。
「親父と同じ顔で生まれた以上、解だから。」

須藤は言った。
「野球は自分で選んだんだ。それがよかったです。」
(おしまい)

京都大学に合格出来るのなら60万円くらい全人類が払う

馬鹿馬鹿しい

名古屋大学から京都大学に編入合格すれば、生涯賃金は6000万円アップも間違いないです。授業料60万円でそれが叶うとしたら半沢直樹も真っ青の100倍返しじゃないですか。埼玉大学からなら生涯賃金も2億円はアップするはずです。専門学校からなら5億円はアップすると思います。もちろん編入と言う汚い考え方から足を洗って、心を入れ替えて、銀行の頭取を目指した場合の話です。しかしですよ、それが授業料60万円のお支払いで叶うのであれば、日本中の専門学校生が編入予備校に押しかけちゃうと思いますね。何がいいたいかと言うと、「そうならないようにする金額として60万円は安すぎる」ということです。そうです、馬鹿が有難がってるだけで、編入予備校なんて行かなくていいんです。現物60万円はバカみたいに高額ですが、タラバガニが駅前で無料配布されているように誰も買わないんです(そっちです)。

図書館に行かない人が死ねばいい

編入予備校に献金した人を見る目が優しすぎるんですよ。「図書館に行きたくないです」と顔に書いてあるようなものです。軽蔑しましょう。筆者も熱中症に罹るのを辞さずに三日連続で市立図書館に自転車で行きましたけど、おかげさまで充実したお盆休みでした。そんな自分なりに「彼らと一緒にされたくない」というプライドを持つべきなんですよ。エアコンの利いた部屋から一歩も出ずに、ぶっちゃけYoutube視てる予備校生なんて、いまから落伍者を見る目で軽蔑できないと、社会に出た後で出世しません。

自信の無さを60万円で買ってみただけ

編入予備校に献金する人はとにかく自分に自信がなさすぎます。みんな背中を丸めて、道路のコンクリートを見つめながらトボトボ歩いて、「自分なんかが大学の勉強を独りでできるわけないんだ。」という暗い気持ちをカバンに入れて背負って歩いているんです。そんな彼らなりに苦心して合格するのは、偉いと言えばすごく偉いんですけど、誰もそんな徒労苦役を強いた覚えはありません。夏の暑さの中を爽やかに自転車をこいで市立図書館に通って、ジブリヒロインみたいに猫なんか追いかけちゃったりしてたほうが健康的だし、伸びしろもあると思いますよ。

オンライン編入学院の広告戦略がやはり数年前のトレンドのままであること

ちょうど三年前に「編入サークル」の屋号で華々しく開業した現オンライン編入学院ですが、広告戦略が古いなと気付いたひともいるのではないだろうか。筆者は、広告業界(広告代理店業界)における「最新の戦術」、その進化のスピードをひしひしと体感した。たとえ創業者が広告代理店の出身でも、広告代理店が直接経営しているわけではないのだなとつくづく思った。新着なのに、まるで古新聞のような違和感がある。いまの流行を模倣するに、そのための技術を出身の広告代理店とやらから持ち出していないから、できないのである。

世相は、未曽有のパンデミックたるコロナ禍の潮目が、いままさに引き潮である。コロナ禍で、高齢者をはじめとする大量のオフライン層が、オンラインを頼り始めたことを読み切って、まさに高齢者をターゲットにした「わかりやすさ」を売っていた。しかし、あの当時の大手広告代理店は、それこそ現オンライン編入学院がそうであるように、自分たちの手法を模倣した連中を野放しにし過ぎたんじゃないかなと正直思う。実際あの当時の消費者が、自分の直感に寄り添ってくれる広告を信頼したのに対して、最近の消費者は「聴きたがり」といった感じがある。コロナ禍を経て、猫も杓子もyoutubeを見るようになった影響もあるのだろう、「貴方は賢いので本当のことを言いますが」、そのような語り部が増えたなと思う。

最大手電通で過労死自殺の事件が起きてからもう7年が経つ。衝撃的な事件とセンセーショナルな報道で、インターネット上でも話題が話題を呼んだ。そのときの噂と一緒になって、業界の秘密のようなものまでささやかれていた。「広告は偏差値40がわかるように書け」というジャーゴンなど、筆者はよく覚えている。要するに数学のテストで30点台の者が「わかった!」となるように書かないと、広告としてダメだぞということだ。それはその通りだと思う。しかし、一緒になって損をしたくない人々が新しいパイになって、広告が早食い競争をしだしたのを感じる。