投稿者「Warp-man」のアーカイブ

経済学ってなんだ #5

ガソリン価格値上げとは、原油価格高騰と同時性があると誰しもが思っている。しかし、人気アーティストのチケット転売価格は人気沸騰と同時性がある。供給と需要のいずれに順応な価格設定かどうかは、サプライチェーンのなかで最終消費者に接近するほど需要の御機嫌に晒されると、直ちに気がつくことができる。しかし、それは、市場で単一の取引相手と長期安定的で継続的な関係を望んでいる需要者との折り合いに晒されると逆説的に言い換えることもできる。さらに言えば、「企業の見える手」、つまり価格決定権のある経済主体(・・・競争市場の価格受容者というよりはむしろ彼に価格決定権があるかのように見える経済主体)とは、わがまま然るべき、滅多にそれを買わない消費者が大勢いる市場で、彼らと直接の取引を回避したい供給者に、架空の長期継続的消費者として仲介の労を担うものなのだろうと疑うことができる。つまり供給者に対して安定価格を、需要者に対して変動価格を、器用に提示し続ける仲介人として、それをやってのける経済主体とは、まさに「企業の見える手」なのだろうということだ。

こんにちは、Warp-manです。

コンビニの漫画雑誌で表紙に女性グラビアを掲載するほとんどが「えなこ」さんを起用していました。詳しい人は、競合横一線にえなこさんを起用している状況で、えなこさん以外を起用すると、変な話、えなこさんを上回る美貌であっても、雑誌の売上は「まず落ちる」と言う。スタイライズファクト(stylized facts)とは、水曜日に株価が上がるなどのアノマリーというよりはむしろ実話に近い、不思議な話である。もちろん実際は、様々なグラビアアイドルを起用しているのであるが、極論「えなこフリー(逆にえなこさんを一切起用しない)」のような真似は経営戦略として大きくリスクをとるものなのだという。

もちろん経済学でしばしば議論される「限定合理性」に対して、行動経済学が面白おかしく「こういう認知バイアスに違いない」を埋め込んでアトラクティブな話題にする作業を、批判をするつもりはありませんでしたが、こうなってくると悪い意味合いのプリミティブ(primitive)だなと思います。つまり行動経済学とはカルト的なトートロジーに陥りはしないだろうかと思うわけです。少なくとも情報非対称性や取引費用といった理由で説明できそうな様々なことを実験的に検証していくことは、行動経済学の相棒にあたる仕事ではないのだろうかと思うものです。

経済学ってなんだ #4

需要と供給の一致。これは価格と数量に於いて単一の均衡点を共有するという意味だ。物理法則であれば万有引力で林檎が木から落ちるが如く、果たしてどのような原理で単一の均衡点を共有するのか。所謂「神の見えざる手」とは、情報である、リンゴの需要曲線と供給曲線、売手と買手の留保価格(例えば、20円以上でなら売っても構わない、198円以下でなら買っても構わない)の分布情報を知っている者がいないと、合理的判断として誰一人均衡点を言い当てることすらできない。神の見えざる手とは、知っている者たちの手である。

教科書的ミクロ経済学がスキップしている様々なこと。市場参加者の私的情報とは、たとえば98円でリンゴを売る人が都合よく98円でリンゴを買う人を知っていたりすることで、毎度訪問販売のように98円にて長期継続的に取引すること、つまり、もしかすると均衡価格という仮想的で中央集権的な統制を外れたところで分権的取引がなされる可能性はスキップされているものの一つだ。

こんにちは、Warp-manです。

同じ意思決定でも、限定合理的な人間と完全合理的な人間で、何をどう考えたかが違うことは多々あるわけです。ここで合理性とは、情報に由来するとします。たとえば「殺人鬼がこれから家に来ます、どこに隠れますか?」という質問に対して、殺人鬼と告げられてそう思っている人は、結局誰が来るか知っている人に対して、限定合理的な意思決定を迫られます。両者とも「ドアの後ろ」に隠れたとして、殺人鬼だと思っている人がそうしたならば「反撃」や「自衛」を企図した可能性があります、しかし殺人鬼ではなく本人の家族だと予めわかっていたならば「逆に脅かそうとした」可能性を考えることができます。ここで、ドアに隠れた両者に「殺人鬼に反撃するような人間なんだな!危ないな!」、「私(家族)が来たと知っていたなら証拠を出せ!」と尋問することが、ナンセンスかどうかはイタズラっ子本人次第かもしれません。

経済学が完全合理的な経済人を前提とする根拠は、社交パーティーでいつか参加者全員とお喋りをする感覚的なところで、需要供給曲線、一人ひとりがおおよそどのような価格帯で取引したがっているかの分布情報は周知の事実にならないだろうか、という考え方を、逆に棄却できないことのほうに依拠している気がします。需要供給曲線を知っているはずとすること、ではなく、知らないはずとすることが苦しいことのほうを評価しているわけです。

経済学ってなんだ #3

法。制度に則って機械的に社会問題を処理していくことは、機械的な処理として合理的であっても、それ自体が合理的とは限らないわけである。なぜなら人が善かれと思って欲しいもの、善悪に則った真っ当な欲望に柔軟な経済を、どう活かしていくかの判断が、同次元の問題だからである。特定の課題として、たとえば携帯電話のゼロレーティングを認めるか否かという問題に法が立ち入ってくるさい、そのような点検作業が欲望に柔軟な経済との折衝であることをどこまで留意したのだろうかと考えることができる。

こんにちは、Warp-manです。

ゼロレーティングとは、携帯電話会社が新規契約時に特定アプリケーションに限って通信費を格安にする特約のことです。いま、とあるアプリ開発者が、有名動画配信サービス”Youtube”に対抗して、動画配信サイトを制作し、視聴アプリケーションを開発したとします。架空のアプリケーションの名前は “Mr.broadband”です。ここで、”Mr.broadband”を知った携帯電話会社がアプリ開発者に問い合わせをして、ゼロレーティング特約の選択肢に加える条件をわざわざ提示してきたとします。もしも携帯電話会社が超過利潤を得たとして、超過利潤とは、携帯電話会社が直面する市場(主に本体または通信費、あるいはその両方)で、諸々の努力をした結果によるものではないわけです。このような超過利潤を静観しながら、「全体的に通信費が安上がりになりそうだな。」と期待する人もいるかもしれません。また、携帯電話会社の超過利潤に対して「認知度の高い開発会社のアプリが有利なので、アプリ開発のほうの市場で、公平性を歪めている。」と考える人もいるかもしれないわけです。しかし現実には「ネットワーク中立性」という観点から考える人達で討論になったりもするわけです。

経済学ってなんだ #2

フランソワ・ケネー(1694-1774)の経済表。ケネーの説いた経済循環とは、貨幣を媒体として価値が循環していくことを、経世済民(人民の救済を念頭に置く統治)の在り方だとする。フランス革命前夜の宮廷医師だった彼の胸中には当時フランスの「貧困」が確実に焼きついていた。重商主義批判とは、後に重農主義という形を成すものである。重商主義とは、貿易で貴金属が蓄積されること(国家に偏在すること)を富国とする国策であり、絶対王政と同時期に糾弾されている。それ以降、自由権(国家権力によっても侵害されない個人の自由)、法の下の平等、社会権(国家権力の施しによって個人の人間らしい暮らしが支えられること)を市民社会が勝ち取っていく、歴史的経緯の流れのなかで、産業革命(技術革新)を度々経験しながら資本主義社会が成熟していく。

富の偏在。富に恵まれた主体とは、軍事力にせよ、経済力にせよ、強力である。国土の侵略戦争にせよ、市場経済の自由競争にせよ、富に恵まれた恵体同士の争いになれば、自国を代表する恵体のほうを勝たせるために国内の富はさらに偏在するのである。経済の重商主義とはフランス革命にてセンセーショナルに打倒されたものでは断じてなく、結局は「企業」が自己中心的に取って代わるだけだという現実に、資本主義国はようやく青ざめようとしている。トリクルダウンなど誰が言い出したのか、想像を絶するほど水が上から下に流れないのである。

こんにちは、Warp-manです。

先進国による直接投資とは、途上国開発論の主要なメソドロジです。しかし途上国側の格差社会を顕著にすることが、わかってきています。2022年度大分大学経済学部編入学試験(小論文)の大問3のテーマに「直接投資における途上国側の課題と解決策」が出題されています。東南アジアの民主化は、中間層(考えるサラリーマン層)を厚くしたことが勝因であると思われていて、確かに政治意識の土壌が形成されていることで、重商主義の歯車を拒絶できるとは、その通りだと思われます。私の弁論の立場をわかりやすくすれば、たとえば商品作物のプランテーションとは、多国籍企業による大航海時代だと思っているのですね。

経済学は、その最大の目的たる「貧困の解決」で、現実の政治や国際関係と不可分なものなのです。経済学が、経済学に関わる人びとの会議室で、ではどのような学術的準備をこしらえて待ち構えているかと言えば、市場(競争市場)と財政(マクロ循環)を前提とする現実の分析と理論構築を繰り返しているのです。

経済学ってなんだ #1

ペットボトルの天然水2Lが68円で買えたりするのはどうしてだろうか。参考までに天然水500mlは98円するお店である。何がどう「どうして」なのかと言えば、2Lであれば、500mlのペットボトルであれば4本買って392円するし、実際1.5Lであれば296円かかるのに、392円→68円までガクンと値下がりするのは、どうしてなのかということです。

こんにちは、Warp-manです。

ここで、近所のオバちゃんから「みんなに配るからだよ」と言われました。オバちゃんは「2Lと500mlは、そもそも同一の品物ではない」と言っているわけです。確かに、それであれば、あとは「販売する店舗が直面する需要曲線は2つあるのだから、それぞれ価格弾力性が異なれば価格も当然変わってくるだろう。」と話を終えることができます。いつのまにか冒頭の問題意識で提示された392円という価格のほうが、「何を根拠に提唱されたものなのか?」と言われかねないものです。

ただ、「それにしても安くないですか?」と思います。規模の経済性から「2Lのペットボトルのほうが大量生産されているから製造費が安い」という提案をすることはもちろん可能なのですが、これは「たぶんそうだと思うけどあまり論理的ではない」と言われてしまうと思います。もっと明確な別の問題をあげると、飛行機の旅費で「札幌-釧路間」が20,000円以上するのに、「札幌-東京間」が6,000円以下で抑えられる日もあるのはどうしてだろうか、と言われたときに「同一の品物ではない。2つの需要曲線の価格弾力性が違うから価格も当然変わってくる。」と返答することになります。流石に「静学的な絵解き」にも程があると思ってしまうのは、それは「まず札幌-釧路間が高すぎるだろう」という暗黙の前提が存在するからであって、そうであれば「札幌-釧路間を値下げするにはどうしたらいいと思いますか?」と遠慮なく本題にはいれば良いと思います。ここでサプライサイドの課題が浮き彫りになってくるものです、「札幌-東京間はPeachのような格安航空が参入しているのに、札幌-釧路間はJALとANAしかいない。どうしたものか?」と一気にアトラクティブな話題になるわけです。そのうえで、「しかし需要曲線に従って最適な値付けをするのであれば結局は価格は高止まりする可能性があります」ということになってくるわけです。