月別アーカイブ: 2022年8月

残忍な暴君たるセブンイレブン

国税庁に匹敵する

都心のオフィス街にセブンイレブン。東京都であれば、格安スーパーマーケットが各地に出店して、たとえば荒川区、台東区であれば100円安いたまごサンドが手に入る。しかし、石灰を撒かれた蟻のように、都心の特定地域では格安スーパーマーケットが激減する。埼玉県は、大宮駅など栄えている駅の周辺こそ東京都並みにファミリーマートと雌雄を決しているが、少し外れるとセブンイレブンのドミナント戦略の餌食になる。まるで「税金」だ。都心で働くホワイトカラーは良い例だ、要は公共サービスが高くつく地域を狙って人々は計画的に「税金」が不可避である。

逆進的である

誰が利用しているのかと言うと、若年層や低層労働者なのである。夜勤バイト、単発で物流に行くと、普通に「まだやってるのコンビニしかないから」と休憩で行くように促される。あんなもの毎日買えるはずのない連中がマズそうに食べていた。昼間のアルバイトでも、コンビニで買ってきたものを休憩室で広げるのは決まって若い男性だ。結局、料理や、献立のレパートリーの乏しい者が、自炊や、つまるところ食事の節約を働くと、そう遠くないうちに精神的苦痛にやられるのである。筆者もツナマヨネーズ弁当と称して、白米にツナ缶二つをブチ撒けて、マヨネーズをまぶしたものを一週間持ち込んだ結果、生きている意味がわからなくなった。そして娯楽のように行き当たりばったりで食事が買えることに、逃げてしまった。

例外処理ほど高偏差値の学習項目だという実態

受動態では動作主(能動形にした場合の主語=名詞)の前に置く前置詞に、用例として”by”が多く用いられる。その一方で、たとえば”be known to ~”とは「知られている」という意味の受動態であるが、”by”以外の前置詞をつかう受動態も数多く存在し、比較的偏差値の高い生徒になるほど、しっかりと暗記を「させられる」。

偏差値60が、およそ全体上位17%にはいる学力であるから、彼らは正解率20%程度の問題の「できる/できない」が腕の見せ所なのである。偏差値50の生徒であれば、「あー、そういうの面倒くさいしー、やらないんだよねー」と言ってはぐらかす学習項目ばかりを、丁寧に拾っていく勉強法になってくるものだ。中学数学(≒高校受験数学)のほうが、このあたりはわかりやすいかもしれない。埼玉県の公立高校入試(といっても筆者がフォローしていたのは数年前まで)で、数学は小問集合(大問1)を全部解くことが偏差値50(数学)の切符なのである。典型的な内容を正しく理解したうえで最低限の応用力があればすべて解ける問題(大問1の小問集合)が、実際に偏差値50の分水嶺として設置されているようなものだ。

もっと与太話をすると、数学は、数学という科目の学問的体質から当然であるが、応用力の優れた学生であれば本当に基本的なことさえ覚えていれば解けてしまう問題が多々ある。何が言いたいかと言うと、偏差値の割に数学は得意だが英語は苦手だという生徒は100%、例外処理という処理機構が弱い生徒である。多くの問題を処理できる急所のような内容ばかり抑えたがるから、by以外の前置詞をつかう受動態と言われたときに、彼らは直感的に重大な学習項目だと認識できないことがある。逆に、例外処理を覚えることに長けた生徒も多く、高校受験は甘んじた結果になったものの、大学受験で有名私大生に返り咲く人は多い。

高校に入ると偏差値が10落ちる。偏差値70の高校に通う生徒は、超大雑把に言うと、偏差値60の大学に通う学生になる。偏差値70の中学生の勉強法は、中学受験の貯金の食いつぶしや、我武者羅な勉強法の根性論であったりすることが、珍しくない。少なくとも、公立高校入試ごとき満点を狙っていく中学生だった彼らにとっては、偏差値60の生徒(正解率20%に敏感になること)を三年間やらされるということが、もはや全く新しいスポーツの「はず」なのである。大学一般入試が上手くいかない、変な話三年間まったく機微機転のわからなかったひととは、そのようなケースも多々あるのである。

ボードゲーム説

すべての人間は大なり小なり、規定の範囲内であれば賢い。大なり小なり賢いのではなく、基本的に賢くて、規定の範囲に大小がある。ババ抜きで勝ったら銃が出た。クチも利かずに勝つからだ。納得がなければ限界まであるのは当然だ。そんなことを言う人間に限って、気が狂ったように、「デートをしたのだから、別れるならキチンと筋を通していかないか。」と顔を真っ赤にすることもある。結局、みんな、毎度なにかしらボードゲームのように括った範囲内で頭を使っているし、そのボードを叩き割られるようなことをされると困るのである。別の考え方をすれば、そのボードの大きさ、ここでは大きさという日本語を用いるが、それについて妥結できていることが合理的な交渉に違いないのだが、そんなことを一からやること自体が、メタ的な意味合いになるのだろうか、その手の妥結に他ならない、言葉遊びがしたいのではない。結局みんな、自分の得意なボードに相手を引きずり込んで上手いことやりたいなと、思うものなのである。

しかし安穏と暮らしていける範囲内とは、むしろそのような「ボードゲーム説」の意味がわからないような集団のことを言うと筆者は思う。どういうことかと言うと、実際前段落の話が聞くに堪えなかったひとはかなりいると思っている。そんなことを考えていたくないと言うか、率直に「気持ちが悪いだろう」、別に相手のボードを叩き割るつもりなどなく、納得がいかなければ教えて欲しいし、負けでいいやという感覚も誰しもが養っているものではある。しかしそれは上で述べた「ボードゲーム説」が、穏やかに実行されているだけで、一応、意味もなく闘ってはいるのである。安穏と暮らしていける範囲内とは、そもそもボードゲームが一切行われない集団の範囲だろう。機能不全家族とは、家族間で経済的な利益、不利益の折衝があるのは当然として猜疑心が横行しているような家族である。そうではない家族(機能家族)とは、典型的な安穏と暮らしていける範囲である。

勝てるゲームをしたい。冷静に考えれば、ボードの大きさを自分で決めることができるのであれば、直感的極論として絶対に負けはないだろう(そいつの頭の中で)。しかし冒頭ではあのように述べたが現実に賢い、賢くないは確かに存在して、相手のボードゲームを受け入れたうえで勝ち始める人間もいるのである。喩えて言うならクモの巣をテンテンテンテン…とクモのように歩いては食肉に長けた生き物なのだ。住んでいたクモの御機嫌も構わず、その巣で暮らし始めるオオキナモノなのである。上がり込む、上がり込まれる、上がり込んでしまうということがあるのである。それが、「安穏と暮らしていける」という願いを奪い去っていくのである。

違うなら違うし違うんじゃないの

おしりファルコンは元大リーガーのイチローさん(鈴木一郎)を引き合いに出す発言が多い。これについて、「彼は自分がイチローに匹敵するとAの観点から思っている、しかしBの観点から大きく劣っていることに気づいていない、イチローさんに失礼だし、真に受けた青少年らは可哀想だ。」というコメントをした高校教諭がいた。冗談めかして「ファーストゴロの打ち方を追求しているうちに本当にそのようなレベルに衰えた」、その裏では大学生に向かって「野球ヲタク以下だ」など目に余ると言う。基本的に学校教諭とは、教室の統制のために「デタラメ」なことを言い続けなければならない。おしりファルコンのような大人になるなとは正論に違いないから、一般青少年に向けて発信するのは仕事の範疇として、いかにその考え方を免罪符にしているかは周知の事実である。

違うなら違うし違うんじゃないの。イチローさんに匹敵しないのであれば、匹敵しないと思うし、実際問題匹敵しないんじゃないんですか。本当の正解を言うと、こういうリアクション、特に「誰もそんなこと言っていないだろう」と顔を赤くして反撃すれば、「従順」、「教員に対して素直」という評価を教員側で採点する、「だけ」、である。

高校教諭に逆らいたかったらメタ的にいかなければならない。筆者も高1のとき、「千円で買える個性で満足する人間になるな」という一行と共に染髪(茶髪)を咎められたことがある。担任からである。件の一行が一切納得がいかなかったため、筆者だけ黒髪に戻さず一週間登校してみせた。結局、担任とは口論の末、「命令として黒髪に戻せ」と言われたので、ハッキリ言って差し上げた、「結局それだけの話なら最初からそう言って欲しかった。」。一人の人間として、コミュニケーションをとりたいのであれば、もちろん構わないが、教員というパワーバランスで強制されるのは苦痛でしかないことを、「イイセンセイ」は知っておいて欲しいと切に思う。

何事も社会勉強だと言ってしまえば、間違った人間にも頭を下げなければいけない、しかし先述の通り高校教諭がいかにその考え方を免罪符にしているかは周知の事実である。大人を養成していると言ってしまえば、間違えて構わないのである、大学教員になるとさらに酷くなるが、もはや青少年育成などという公儀公論自体を放棄してくれているので、鬱陶しくはない、ただ提供しているものの正当性は更に劣悪になる。そんな自分たちの至らなさに詳しければ、オソライソ編入学院が高等教育機関に匹敵したがっていることにしてこき下ろせるものだ。しかし、違うなら違うし違うんじゃないの。

中間層学生

高1の春に「東大完全攻略数学」のような難関校本番対策の参考書に手が伸びる高校生。最終到達地点を見てみたい、「見る」という動作をしてみたいと思うのは自然なことだ。しかし、教員・教諭という立場の人間でこれを是とする者は、彼らのすべてではない。少年野球の児童にプロ野球の試合を見せてみる感覚で絶対的に必要なことだとする教員もいれば、全く現実のわからない一定数を生み出して終わると否定する教員もいる。

志望校合格とは、現実的実現の目標である。大人として目標に対して正しいマイルストーンを置くことは、全ての大人がおこなう。たとえばスポーツクラブの会員制サイトを製造するITベンダーはガントチャートと呼ばれるもので工程を細かくスケジュールにしてある。しかし東大に行くような高校生に、「君たちが眼中にないような連中が大人になったときにやる仕事」の話をしても、ほとんどの者が困るのである。何が言いたいかといえば、君たちはまだまだ人間として、公立の小学校、中学校で、どんな馬鹿馬鹿しいヤツらだとしても同じ教室で画一的に学んでいたようなものの、残りが、あるんだよ、ということだ。

東京大学や、それに準じる一流高等教育機関が、「〇〇は▼▼」と言ったときに、それを真実として拝受する者は大勢いるのである。しかしそれは、「東大完全攻略数学」のような参考書をある種頂点に君臨させながら妄想するヒエラルキーの病理、その具体的な陽性反応なのである。高学歴は偉い、高学歴の言う事は正しい、という考え方が、「自分ごときのために処方されたクスリだ」と思える人は全く少なくない。しかし、それが当たり前のことだというのであれば、全く現実がわかっていない。どういうことかと言うと、Aランク大学に全く用のないものの、現実的に自分のレベルに見合った大学があって、そのルートの人生を真面目に生きていく予定の人間は、たとえば東大完全攻略数学という参考書に対しては「なにか神聖なもの」というレッテルを貼って終わりである。自分が直面する現実的な課題を解決してくれさえすれば構わない人間を現実主義者と言うべきかはわからないが、逆に全く賢くない「よくわからないが□□を■■だと思っていると上手くいくんだよね」という人間と、上述のような一流の発言に真剣に感化される必要のある人間の間に、現実主義的な意味で賢くあるべき人間は確かに存在しているのである。

編入試験の穴場ランキング#1経済学部

趣旨

一般入試の感覚では全く見えてこない編入学の穴場を紹介するコーナーです。編入予備校がすすめる穴場大学は、結局予備校で講座を受講する前提で合格させやすいという意味合いになってくる関係で、独学する受験生には少し違ったものになってきます。旧帝大を目指したくなるのは当然として、それ以外となると沢山の大学を吟味検討することになる、そんななかでピックアップを紹介したいと言うコーナーです。

1位 滋賀大学

データサイエンス学部設置で時代の潮流に乗る滋賀大学。滋賀大学経済学部は、TOEIC+面接(志望理由書)で受験できる、経済系編入のキングオブ穴場大学。TOEICは800点くらいで足りるという噂があります。面接では、滋賀県にどんなイメージがあるか聞かれることも。滋賀大学は、一般受験の滋賀県民が、前期神戸大学、後期滋賀大学とか併願することもあるから意外と頭の良い人がいるかもしれません。

2位 お茶の水女子大学(生活科学部)

お茶の水女子大学生活科学部は、全く知られていない隠れ経済学部。ネームバリュー的なところで西の神戸大学に匹敵する学歴を、経済学部でって言う人が恐る恐る筑波大学とか横浜国立大学とか答えるのを尻目に、お茶の水女子大学生活科学部は超穴場。ミクロ・マクロなど一切やらずに論述考査で乾坤一擲というひとにオススメです。ただし実施しない年度もあります。また社会学分野の受験生も受験するファカルティなので倍率は全然甘くないです。

3位 大分大学

国立大学志望なら是非という大分大学。いま大分大学と聞いて、「あぁ。うん。」と思ったと思いますが、そんな受験生のリアクションこそ穴場であることの証明なのですね。旧帝大の受験生が併願したくなくなるようなプライドの砕け散ったネームバリューが穴場の理由です。試験は論述考査で、新聞時事がコンスタントに出題されます。ミクロ、マクロより高校公民科の延長で経済学の本を愛読しているような人には受験しやすいのかなと思います。受験対策としても高校政治経済から復習していくことになりそうです。

「か弱い」として女性性を包摂する企業社会が本物の弱者を隔離した現実

ディーセントワークとは、ILO(国際労働機関)の日本語訳であれば「働きがいのある人間らしい仕事」という意味になるが、ILOが2008年頃に掲げたスローガン、「ジェンダー平等はディーセントワークの中心(≒ジェンダー不平等がディーセントワークすべての側面に横断的に関わる問題だ)」の訴えのほうが、端的である。たとえば、正規-非正規雇用間の賃金格差を、ディーセントワーク(自らが望む雇用形態を選ぶ機会があり、かつ生活に必要な賃金が得られなければならない)として捉えるさい、我が国で女性が非正規雇用労働者として働いていることを、「ジェンダー平等」という問題に関わることだと考える(再考する)ことができる、そのような意味合いだと思っている。

我国の現実として「女性社会進出」とは、女性管理職や女性正規雇用者を増やす約束事に変換された。少なくとも、上述のディーセントワークの考え方に則って女性に自由な働き方と経済力を同時に保障していく意味合いでは、なかったと言える。それは「女性を男性にして働かせることには反対です。」というメッセージにもなってくるのである。雇用慣行の男女差、つまり女性は家事労働の責任ある担い手であり男性の就業専念に責任を持つという旧来(高度経済成長期以来)の考え方を脱していないという懐疑論を、ジェンダー平等の問題として再考するとは、つまり性役割や女性性というトピックスを今後こそ「(家事労働の担い手とは限りません、そのような)誤解のないように」という訴えとして、考えていかなければならないはずなのである。必然的に、人間が男性社会的労働に立ち入る前段階的なところで仕分けのように男性-女性を差別していくことを、辞めてみせるということと、男性社会的労働の女性とは必然的に「か弱いもの」だとしてひたすら擁護する方法論を試したのである。

セクシャル・ハラスメント問題が、企業で面倒くさい男性従業員の「厄介払い」を行う手法として機能していることは、一度当事者にならないと知る由もない闇である。ストーカー規制法は、旧法で恋愛感情の立証が必要だった点を改正した。所轄警察署が厳格な運用をすればするほど、穿った見方をすれば、こうした女性の心身を救済する法とは、女性従業員が管理職の番犬になってみせる悪意と表裏一体なのである。つまり人間が労働に立ち入る前段階的なところで仕分けのように男性-女性を差別していくことを、辞めてみせる(≒女性正社員)、ことでは解決しなかった問題や、新たに生じた問題は確実に出来ている。特筆すべきことは、男女平等雇用契約の社内で、女性性とは他ならぬ女性によって率先して「(男性社会的労働のなかで)か弱いもの」という固定観念になってきているのだ。

結論から言うと、ILO(国際労働機関)が訴える意味合いのディーセントワークとは、我が国で順番を履き違えたものなのである。正規-非正規雇用の賃金格差の是正と、女性性を社内で包摂していくことには、合理的に明確な順番があったわけである。しかしILO(国際労働機関)自身も、女性非正規雇用労働者(c.f.シングルマザー、子どもの貧困)の可視化が、正規-非正規雇用の賃金格差を問題視するタイミングであった点は見逃せないだろう。しかし、少なくとも低層労働者に甘んじる経歴、学歴の女性にまで、既存の男性社会に適応する牙を与えることは誰しもが躊躇するわけである。隔離された本物の弱者を生んでしまったうえで、理想論だけが訴えられたのである。

機能不全企業の現状

機能不全企業とは

ブラック企業。最も優れた洞察の一つとして「労働市場へのフリーライド」とは、従業員の能力に搾取的な雇用を繰り返す目的でブラック企業であることを隠して求人を出すという指摘である。暗黙の前提として、通常企業とは従業員の能力開発に一定のインフラであるということだ。企業は、いつか企業に雇われて幸せになるはずの人間を、雇っているということだ。ここで機能不全企業とは、不正、不法行為でもって、従業員を隷属させる企業であり、ブラック企業のなかでも特に悪質な企業である。機能不全企業とは、労働者の法的保護の行き届かない実態に変な話救済された形になった偶然の話題というよりはむしろ、管轄する所轄署と連携して隠蔽、隠匿を継時的に行っているような構造上悪質な企業を言う。頭の悪い喩え話をすれば、困窮に際して村人を肉にして食べる風習の村なのである。村は、いつか村で暮らして幸せになるはずの人間を、住まわせている。

確立された常套手段

女性従業員との実際の関係性を「パワーハラスメント」として指摘して男性従業員を処分しつつ、そのカードの裏には「架空の強制わいせつ」がでっち上げられていて、企業は胸三寸でいつでもカードの両面を「加害者了承済み」として警察署に届けることができる。「女性従業員にパワーハラスメントを働いたことにしたものの、本当は強制わいせつで相談を受けていた、女性の安全のため合理的に加害者に指摘伝達はしなかった」という常套手段なのである。

社会公器の承認

機能不全企業経営者は、ブラック企業経営者にも言えることであるが、自分が経営者として企業経営をしていることで、そこに辿り着いた人間を救済している(自分が会社を興していなければ白骨死体になっていたはずの人間を救済している)という考え方を本気でするのである。また自分たちで繰り返す不法行為についても、内部統制で仕方なく古株が集団的自衛をしている、という考え方に全社的に洗脳されているのである。社会公器たる企業で、コアな人材が組織を守っている。これを管轄の所轄警察署が大々的に承認しているのである。

受験体験記(寄稿)

はじめまして私は、ツバサと申します。この度は体験談を記させていただきました。ご査収ください。

編入学試験を受験しようと思った本当のキッカケ。私は、東京都の私立大学、美術大学に通う一年生でした。もともと、コンクールで優秀賞を受賞したり、美術部員だったりして、絵は得意でした。本当は、地元の国立大学で歴史学を学びたかったのですが、高1のときに男子生徒から暴力を振るわれて、ショックで一時期不登校になったことがありました。なんとか勉強に復帰するために絵画に逃避していました。

大学一年生のころ、インカレのイベントで知り合った都内の私大生(女子)と交際を始めました。彼女は、ゆめきちといいます。彼女は演劇部に所属していて、背が高く、素敵だなと思いました。交際が始まってから、私は精神面でドンドンと回復していきました。前はすごく痩せていたのですが、女子らしくなってきたかなと思いました。ゆめきちには、「ありがとう」と言うべきなのかな。ゆめきちも友達の延長で女子といる時間を楽しんでいるように思えて、変な話ですが気が楽でした。心や内面が昔に戻るにつれて、もともと勉強したかった歴史学にほんの少しだけ興味が湧いてしまいました。編入。ここで編入を知るのですが、Twitterで「日本史の編入は一橋の赤本を使うといいよ」という噂が流れていました。書店で購入して机に置いた瞬間、なんだろう、自然と涙がこぼれました。「これじゃ高校生じゃないか。」

私はある夜、ゆめきちと二人で渋谷で遊んだ帰りの田園都市線で、終電だったのですが、車両で二人になりました。編入の勉強していること、伝えなきゃいけない気がしていました。するとゆめきちは、右手を伸ばして、私の右腕を背中から、優しく握って、耳に頬を寄せていいました。「女の子と付き合うなんて夢にも思わなかった。男子とは、ずっと冷めた恋愛だった気がする。心が焼けるようになるのが、まるで身を任せるように確かな感覚だ。」

私は、打ち明けなければいけないと思いました。しかし、ゆめきちは、とっくに知っていました。私に寄りかかったまま、「どうして?」という声が聞こえるくらい、静かに泣いてしまった。私は、私の駅で、二駅先のはずのゆめきちと降りました。

次の日の昼間に、やっとゆめきちは話してくれました。私が思っていたよりずっと、ゆめきちのほうがセクシャリティに悩んでいて、演劇をするのも、中学時代に患った解離性の健忘を前向きに考えながら周囲の反対を押してはじめたことだったのだと言ってくれました。私は、私のほうがゆめきちにはなくてはならない存在になっていたことに気が付きました。台所のシンクでコップを片付ける背中が、いつもの少し大きな背中が、傾いたせいなのかな、一瞬小さくみえたとき、何もかもわからない自分を知りました。女子同士って、どういうことなんだろうな。さっぱりわからない。「これじゃ高校生じゃないか・・・『そうだ、そんな気がします。』」

私は、見送った東京の空に言いました。ゆめきちのほうが大事だ。

編入学試験は、地元の国立大学ではなく、ダメもとで、都内私立の超難関校にしました。高校生だもんな。合格は、面接で「美大から」という所を徹底的に突っ込まれてしまい大苦戦してしまったせいかもしれませんが、筆記はできた気がしましたが、不合格。次の年には、学士編入のみになってしまったので、もしかするともともと厳しいところだったんだろうか、そういった下調べを全然誰にも相談しなかったなと思いました。

ゆめきちは、すごく大人に見えたんだけどな。ずっと一緒なのかな。神さまがいたらいいな。叶えてくれる神さまが叶えてくれるといいな。そう思って、池袋の公園で、ぼんやり空をみていると、もうゆめきちしか心に住んでなかった私は、涙が止まらなくなりました。心が、凍えるように寒い。LINEを読んだら、沢山の文字の中に閉じ込められそうな、不安がありました。ゆめきちが5分遅れて到着したときには、何もかも洗い流されたように、スクっと立ち上がりました。今日は、この手が叶えてくれた、握り返す私の手、ゆめきちを描こう。ずっと何枚も描こう。

おわり。

法学部生が法の精神に敗北してしまう現実

批判の価値。ネガティブなコメントも読者に新しい知恵をもたらす価値がある。批判とは、それ自体が知的財産なのだ。そして元の著作者が利害関係者であれば、なおさら秘密裏に流通するのも無理はないだろう。しかし、批判家は、自分の批判を読んだひとを改めて自分の読者として考えなければならないだろう。批判家は、批判家としての自分についてきた読者の利益を誠実に考えなければならないだろう。道徳である。しかし、誰がためにそのような高尚に励むのかという人間的な疑問が立ちはだかるときもあるだろう。

法律を勉強してもいない人間が法的保護のグレーゾーンを巧みに捌きながら、実質的破廉恥行為をしている。法学部生と言っても様々なので、全く異次元に、プライドに傷がついてしまう者もいる。つまり、法律を学ぶ人間として実直に憤りを感じるもの、だけではなく、要は法学部が同じことをしたらもっと怖いよ?(やってあげようか)の方向性で悪意が湧く法学部生もいるのである。

道徳とは、法と同次元の概念としては、社会集団の慣習から、良心や善で形成される。法学教育には道徳教育の欠落が許されないものであるが、社会集団のスピンアウトとしての道徳が、個人的な体験を通じて形成される個人道徳と相反し、受け入れ難いものであれば、あるほど、結論から言えば機械的なアーキテクチャとして法を、社会問題の単なる処理ルールとして法を、悪魔の代弁ならぬ悪魔の勤勉でひたむきに学ぶ時間が増えるのだろう。信念なき苦役に修めた道具とはそれ以上でも以下でもないのである。