嫌いなもの

100個の玉の入った壺があって、赤玉と黒玉が50個ずつ入っている壺Aと、赤玉と黒玉がそれぞれ何個入っているかは分からないが合計100個であることは揺るがない壺Bがあったとします。壺に手を入れて赤玉を引いたら1ドル貰えるゲームをすると、ほとんどの人が壺Aで遊びたがるということが知られています。これは有名なエルスバーグの壺の実験で、曖昧性忌避というトピックです。何という学問領域のトピックかは、数学、心理学、行動経済学など、興味を持った学者のバックボーンが様々であることから断言も難しいのです。しかし筆者個人の考えというか、憶測でよければこれは「感情」に近いものだと思います。壺Bの赤玉が50個より少なければ壺Aを、多ければ壺Bを選べばよいと思います。これならば「計算問題」だと思います。しかし比率が分からないのであれば計算問題とは言い難いわけですから感情によるものだと思います。

物事を疑ってかかるときに、それが「感情」なのか「計算問題」なのかは、基本的に誰も気に留めないのですが、自分に説得的な者が果たして「感情」で言っているのか、「計算問題」で言っているのかは確認したほうがよいです。それは案外簡単です、計算問題として定義されているか確認すればよいのです。しかし頭ごなしに疑う人は、その特定の客体になんの前情報もないわけですから、感情で言っています、前情報とはつまり確率分布がないわけです。ネットカフェで、財布を自分のブースに置き忘れたとき、たまたま出るとき廊下に誰かが立っていたかどうかで、筆者は不安の度合いが変わってくるのですが、これも「感情」だと思います。少なくとも完全な「計算問題」ではない。盗難に遭う条件付き確率など知る由もないからです。

その代わり人間は学習をします。確率分布情報を完全に知ることは難しいかもしれないですが、自分が直面するリスクの大きさを学習することができます。財布の盗難はいい例です。危ないことくらい誰でも知っていると言うと大雑把すぎますが、しかしそれは自分が体験した、または見聞きした事象の集合から導かれた仮想的確率分布なのですね。仮想的確率分布に従って、不安になることが「感情」と言い切れるのだろうか。

何か勢いよく「Xだ!Xだ!」と言い張って周りを感化して、実際に「Xかどうか検める機会」を取り付けようとする人が私は大嫌いです。要はその人の相手というか、お世話をしてあげないと、話がはじまらないようなシチュエーションに、「まだ慌てる時間帯じゃないし、いいや」と言って周りが同調して、成立していく様子には虫唾が走ります。感情と計算問題の間で、他者に危険性を訴えることの正当性を緻密に考えることがそんなに貴方達には馬鹿馬鹿しいのかよと言いたくなります。人間の群れを一定方向に動かして遊んでいる者同士でそういう喧嘩になったら、自分達だって困るくせに。

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