※下の参考:ハイデガー『存在と時間』
物事は、「存在(存在する理由または目的、あるいは本質が不明である)」と「存在者(明確なもの)」に分けられると言う。時間は、切り離されて孤立した過去を「過去」、現在的な過去を「既在」と言う。現在的とは、存在の未決定性と関係あるということだ。存在のうち現存在とは、内省的な(物事を深く顧みる)意識ある存在である。現存在が、存在に、存在する理由または目的、あるいは本質を与えて存在者とすることを、「現成化」と言う。
大乗仏教では、「心(識 しき)」を因として、仏性を縁とすれば、現象界の万物が救済仏、仏の仮の姿であり得る、そのためにはアラヤー識を浄化すべしということだ。この部分が、浄土真宗では、悪しき故に不浄の自覚をもって阿弥陀仏の本願力で救済される、であるから、人間(衆生)とは、「現存在(自力疑心)」→「存在(不浄の自覚)」→「存在者(救済される魂)」ということになる。ここで現存在のうちは様々な物事が「既在」であるが、存在者の時間においてはアラヤー識を除いて「過去」ということになる、なぜなら救済される魂とは阿弥陀仏による救済が唯一の目的であり、本質にあたるからである。
※下の参考:西田幾多郎『善の研究』より「私と汝」
私(I)と汝(you)は互いに限定しあう関係性であるから、絶対の非連続であるとは、私からみた汝(存在)は限定された汝(存在者)であり、汝からみた私(存在)は限定された私(存在者)である。「自覚的限定」とは、私からみた私(存在)は私(存在者)であるが、これを汝(存在者)と見る、そして、汝からみた汝(存在)は汝(存在者)であるが、これを私(存在者)と見る、このようにして、私と汝を結合することが、非連続の連続であり、成せる業は「真の愛」である。今日の私からみた昨日の私(存在)は昨日の私(存在者)であるが、これを今日の私(存在者)と見る、これが「個人的自覚」である。
ここで、もしも阿弥陀仏の救済とは、ここでいう「真の愛」と同一であるならば、衆生は自己の中に阿弥陀仏を認める必要がある。つまり自分自身もまた衆生を救済する使命をもった魂であることを阿弥陀仏と認め合うということになる。