謝辞:日本代表の皆様おめでとうございます。佐々木朗希投手もおめでとうございます。
筆者は、試合がターニングポイントに差し掛かるほど配球の読みを捕手に外されるレベルの野球フリークだ。インコースとアウトコースの違いがなんとなくわかるから、なんでもないような場面なら次のボールが大体当たる。野球少年時代に、部活のコーチから「ボールの軌道を覚えて、投球を点ではなく線でとらえてごらんなさい。」と教わったものの、インコースは点でとらえるしかなく、アウトコースに行くほど線でとらえやすくなる。バッターボックスの構造上そのようになる。だから速球はインコース、変化球はアウトコースがセオリーになってくる。おそらく初歩の初歩だろう。筆者が捕手をやるとしたら、真ん中高めに外れる剛速球の使い方がいまいちわかっていないなと自分で自分に思う、そんなレベルである。
次のボールの予測が外れ始めると、打者や投手、捕手の顔色やジェスチャーをなんとか読み取ろうとして、いるうちに、一人ひとりの選手をあたかも等身大で考えるようにもなった。心理描写と言うか、人の心理と言えば大学で勉強したことに少し関連あることだ。もしかすると、試合中の選手たち一人ひとりをスタンドで応援しているファンより、等身大で鑑賞したがる少し変わった野球ファンかもしれない。
もちろん野球は見世物だという考え方は嫌いではないし、筆者自身が楽しんで観ている。選手たちへの批判も、本当は温かなものなのだろうなと思う。しかし野球を批判する者が、「所詮見世物だと思っていますね。」とは絶対に受けてはいけない誤解だろうなと思うのである。「楽しくみています、ありがとう。」という感情より大きくなってしまった批判騒動というのは、その辺りを空虚にしてしまうなと思う。技術的なこととして、毎日ケアしている現場の人物の判断は絶対だ、と言うことは、たとえば「野球解説者の自分がこういう発言をしなければならない」のような使命感に駆られても、見落としてはいけないなと思います。そうでないと、「どうして毎日ケアしている人の意見が差し置かれるのですか。」という所から意見が出たりするし、悪くすれば、「差し置いていいから言っているのですよね。」となりかねない。何某か使命感から発言するときは、自分の発言がスタジアムになることまで想定して、慎重に前置きまでできるとエレガントなものだろうなと思う。
佐々木朗希投手はチャプマンみたく代名詞になってほしいです。筆者は、ふざけて、「チャプマン」と言いながらマウンドに登って見せたことがあったのだが、そこが「ささきろうき」とか言いながら、になって欲しいと思う。