筆者が精神科に入院していた頃、同じ入院患者で16歳の女性がいた。筆者は毎日、その女性のお尻を眺めていた。「そろそろ周りがその事実をあの子に伝えそうだな。」と思ったあたりで、思ったのは、「どうしてですか。」と尋ねられたら、「社会の一員にしようと思った。」と答えて笑いを誘ったらいいと考えるにあたって、「これをやっているのか。」と言うことだ。やっているのは、性欲の業だが、思考回路はこういうことなのではないだろうか。セクシャルハラスメントである。
しかしこの、いけないことをする側の「性」で生まれたら、考え方くらいわかっていないと、批判家の言うことの意味がわからないのも、どうしてだろうなと思う。セクハラ批判が、男性批判を通り越して、男性社会批判という転覆構想に発展する理由が、いまわかった筆者は、それこそ以前であれば、「女性のする男性批判はセクハラなど人間的にアウトな事例ばかりで知的なものがない。『あの人は人間として尊敬できるが合理的過ぎて悪い意味で男性的だ』のようなことを誰も言わないのは何故だ。」と悩んだりしていた。しかし、筆者は大卒者であれば年齢的に悪戯の対象でないだけだったし、社会のせいにしたのは男性のほうだった。
「陣痛は男性だと死んでしまう」は、方便でも絶対に伝承を絶やしてはいけない言葉だと思う。筆者は、筆者なりに女性性の普遍的定義として理解して以来、「女性を守らなければ男性に生まれた意味がない。」に始まり、「男性社会は男性の都合ではない。」を経ても、「男性は身代わりになれない。」を見失ったことはない。しかしながら、男性が、あるいは一部の男性が、女性を裸体で考えることは、対女性という意味合いで彼らなりの回避性である。女性のやることや考えることへ「精神の理解」を示そうとすることは男性にとって苦痛を伴う。それであったら、「女の裸は好きだが、女性は嫌いだ。」としてしまうほうが、よっぽど社会適応的な者もいる。もっと言えば、女性を性対象とだけ視ることで、それに相応しい男性性や力強さ(マスキュラリティ)を自分自身のものとなるよう手に入れることで、「男性は男性になる」ほうが現実的でもある。