ファシズムや全体主義と、権威主義体制(有数の指導者による政治体制)とは歴史的同時性があるばかりか、多くの人びとの認知に「ヒトラー」という具体的な人物が紐づいている。社会が停滞するとヒトラーや「小泉純一郎」のような人物が台頭すると考えることも平均的な社会人の知識である。しかし、ファシズムとポピュリズムの違いは何かと訊けば、「前者は戦争で、後者は政治でしょう。」と明快に応答がある。確かに、カント(1724~1804)とロールズ(1921~2002)は、民主化された国は平和論的であると主張した。両者には明確な隔たりがあり、戦争と暴力とは明確に区別されるように、暴力と暴力じみていることも明確に区別されるのである。しかし、それも、国の経済成長の期待値の問題であるだろうと、思わせたに等しい恐ろしい事件として、2022年2月以降のロシア、ウクライナ侵攻がある。
ハンナ・アーレント(1906~1975)は、ユダヤ系の家庭に生まれ、ナチス政権期にドイツからフランスを経てアメリカに亡命した人物だ。アーレントは、人と人とが言語を介して相互に関わりあう「公共性の領域」が、人びとの多様な思想に触れ、多様な思考を可能にして、ファシズムや全体主義の危険を回避すると考え出した。筆者なりに結論を急げば、ファシズムとポピュリズムは、アーレントの処方箋の前と後の関係にある。アメリカに亡命したアーレントが19世紀以降アメリカのポピュリズムを全く知らなかったはずもなく、おそらくは自分自身の主張の一つの顛末としてポピュリズムを見落としていないと筆者は思う。
民主化された国の経済や政治が停滞すると、急進的な考え方に火が付いた段階で、それを推し進めようとするグループと押し留めようとするグループの対立軸になりやすい。代表者のメッセージングは次第にわかりやすくなり、人びとの思考の多様性も縮小する。アーレントの言う「公共性の領域」は、人びとが思考の多様性を失わないことを期待しているから、筆者なりに「見落とす」とか「見落としていない」という日本語を使った。言論の機会(プレイス)があるほど、人びとの思考が多様性を帯びることは否定しないが、現実の政治が勝つことを目標にする限り、議題の限定されたものになる。公共性の領域が、である。
経済や政治のシステムの支配下に公共性の領域が置かれてしまうことは、ハーバーマス(1929~)の指摘するところでもある。ハーバーマスは、対話的理性、相互に批判しつつも所謂建設的に討論することを必要なコミュニケーションであるとした。それに対して、経済や政治のシステムの支配下に生活領域や公共性の領域があることは人間性の危機であると主張する。アーレントの意味で、公共性の領域を定義したうえで、それを経済や政治のシステムの支配下におかれることを危険だとするハーバーマスの考え方は、ポピュリズムへの問題意識として再考することができると筆者は思う。ハーバーマスの問題意識は、ファシズムとポピュリズムにまたがるものだからだ。