コモンセンス搾取

筆者は、人一倍恥ずかしがらないタイプだ。歌を歌い聴かせたり、書いたものを読ませたりすることは通常人は恥ずかしいと思いやらないことだ。ただそういうTPOでやるぶんには構わないだろうと思う。カラオケボックスでは歌うし、ブログは書いている。だからだと思うが、無言の抗議のような、自分自身に対する集団的自衛行為にはてんで疎い、気がつくのが遅いタイプだ。「相手を子どもだと思う人は子供だ。」という命題を二十歳のときに聴いたときも、あまり意味がわからなかった。ただスポーツチームのように持ち場をひたすら守っていればトラブルなんて起きないのに、なんでわざわざ揉めるんだという考え方のほうが妙にオーバーラップしてあった。与えられた役割をはみだしてくる者のほうが悪いに決まっているだろうと思っていた。しかし、例えていうなら50M走が8秒台の者や身長130cmの者ともサッカーをしなければならない現実世界で、コミュニケーションとは筆者の想像を超えて必要になるものなのだと、最近分かってきた。その結果、社会集団とは一人ひとりでは伺い知れない別の意識をもった「有機体」としての性格を帯びる。5,6人の集団にもなると、集団そのものが生命体のように生きているという感覚、それが最近判然としてきた。集団から排除されたり、自分が除外されそうになっているときは、単一の、または複数の、あるいは過半数の個人ではなく、「有機体」のほうを怒らせてしまっていると考えると、少しは納得がいくものだ。

筆者は、自分はもう何かあると大声をあげたり、叩いたりする人になったほうが、めぐりめぐって周囲のためなのかと言う所まで陥ったことがある。そうやって距離をつくって集団に混じるほうが周りも間違えないのではないかと思った。そう思っていたら、たまたま点いていたテレビがCMのテーマソングを歌っていた。カラオケで歌ったら盛り上がりそうな曲だ。そこではっとしたのは、歌を歌っている自分が他者から好かれるのも、その一方で『アリとキリギリス』などという否定があるのも、結局自分がその時抱えていた問題が社会に存在することや、それを合理的に処理できないことを自分が患っているからだと思えた。

結論から言うと筆者は、形成されたコモンセンスにフリーライドしているのである。思い起こしてみれば「何故自分ばかりこんな目に遭うのか。」という状況に陥ったときは、常々、コモンセンスにフリーライドしていたと思う。ここでいうコモンセンスとは、社会全体の常識もそうだし、何かその部分的なものもそうだ、それこそ人を集めた集団で一定期間メンバーを変えなければ、生じてくる話のことである。他者と会話をするというコモンセンスの空間で会話をしない者は、会話によってやっと形成される様々なものが、無償で提供されているに等しかったのである。会話に限らず、大抵の仕事が、一人くらいさぼる人(逆をやる人)がいても誰もなんとも思わないのである。ただ先述の「有機体」のほうが刻一刻と腹を立てているのである。公共財ゲームというゲーム論の分野は社会的ジレンマという現実の問題に取り組んでいるが、既にこう言うことを言った者は確実にいると思った、つまりある社会的ジレンマ状況に陥るかどうかは先述の「有機体」とコモンセンスが未だに生み出されていないような認知未形成状態が前提にあるということだ。アナキズムの研究なのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です