経済学ってなんだ #4

需要と供給の一致。これは価格と数量に於いて単一の均衡点を共有するという意味だ。物理法則であれば万有引力で林檎が木から落ちるが如く、果たしてどのような原理で単一の均衡点を共有するのか。所謂「神の見えざる手」とは、情報である、リンゴの需要曲線と供給曲線、売手と買手の留保価格(例えば、20円以上でなら売っても構わない、198円以下でなら買っても構わない)の分布情報を知っている者がいないと、合理的判断として誰一人均衡点を言い当てることすらできない。神の見えざる手とは、知っている者たちの手である。

教科書的ミクロ経済学がスキップしている様々なこと。市場参加者の私的情報とは、たとえば98円でリンゴを売る人が都合よく98円でリンゴを買う人を知っていたりすることで、毎度訪問販売のように98円にて長期継続的に取引すること、つまり、もしかすると均衡価格という仮想的で中央集権的な統制を外れたところで分権的取引がなされる可能性はスキップされているものの一つだ。

こんにちは、Warp-manです。

同じ意思決定でも、限定合理的な人間と完全合理的な人間で、何をどう考えたかが違うことは多々あるわけです。ここで合理性とは、情報に由来するとします。たとえば「殺人鬼がこれから家に来ます、どこに隠れますか?」という質問に対して、殺人鬼と告げられてそう思っている人は、結局誰が来るか知っている人に対して、限定合理的な意思決定を迫られます。両者とも「ドアの後ろ」に隠れたとして、殺人鬼だと思っている人がそうしたならば「反撃」や「自衛」を企図した可能性があります、しかし殺人鬼ではなく本人の家族だと予めわかっていたならば「逆に脅かそうとした」可能性を考えることができます。ここで、ドアに隠れた両者に「殺人鬼に反撃するような人間なんだな!危ないな!」、「私(家族)が来たと知っていたなら証拠を出せ!」と尋問することが、ナンセンスかどうかはイタズラっ子本人次第かもしれません。

経済学が完全合理的な経済人を前提とする根拠は、社交パーティーでいつか参加者全員とお喋りをする感覚的なところで、需要供給曲線、一人ひとりがおおよそどのような価格帯で取引したがっているかの分布情報は周知の事実にならないだろうか、という考え方を、逆に棄却できないことのほうに依拠している気がします。需要供給曲線を知っているはずとすること、ではなく、知らないはずとすることが苦しいことのほうを評価しているわけです。

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