羽をもがれた蝶にも生命があり、死するまでの間に活路と彼女なりの哲学が勃興するのです。しかし死刑とは、その場で魂を処断することになります。死刑は憎しみを肯定し、許さなくてよいと命じているのです。
筆者は、死刑に反対である。理由は、上記の通りである。ヘーゲル(1770~1831)の主張とは、「法とは個人と国家との整合的な理性である」という結論を導出できるものだ。法に、いずれも、もう片方に先行するところはないという。あえて全く対立するフーコー(1926~1984)の「理性は歴史の過程の産物である」をここで援用すると、死刑こそ最も整合的な理性になりかねない。そこはヘーゲルとフーコーが全く対立しているからこそ、そのようなエラーを弾き出してしまうのだろう。では、ヘーゲルの言う理性とは、プラトンのイデア論のように普遍的なのか、デューイ(1859~1952)の道具主義的プラグマティズムのように個別に具体的なのか、という悩みに直面する。まずヘーゲルの言う理性とは、社会制度なのであり、そしてプラトンの言う意味の「普遍」を継承する考え方だった。国家の普遍的意思を国民が洞察して一体となる、この整合性が国家の理性と国民の自由だった。つまり、法である。ここで、ヘーゲル自身にも良い法律と悪い法律とがあるという感覚があったように、死刑に賛成する者のほうに傾聴する日本は、ヘーゲルの意味で果たして理性的な良い法律であるとしているのだろうか。まず、国家の普遍的意思として「許さない」があって、それを国民が洞察して一体となっているのかということである。
ヘーゲルの理性とは、普遍的というよりは不動点的だと筆者は思う。もちろんヘーゲル自身が「普遍」を見出したのであれば、それを追従するのも全く悪くないものではある。ただ国家の普遍的意思のほうが普遍的に理性であるとは全く限らない現実で、ヘーゲルの指示しているものは啓蒙専制君主の擁護論ではないのかと思ってしまったりもした。