貧しいひとがいることを問題視する
格差とは、公平性が保たれず不平等であることを言います。公平とは、たとえば15個のリンゴを15人に1個ずつ分配することだとします。全員1個ずつなので公平です。
たとえばリンゴが1個増えて16個になったときに、残りの1個をコッソリ誰かに分け与えたとして、「えー、それは公平とは言えない」と言う者もいれば、「いいよそれくらい」という者もいます。今回のたとえばの話ではどう転ぶかわからないものの、完全に公平な状態が崩れてしまっているのは間違いありません。
逆に一個減って14個になり、食べられない人が出てきたとします。誰か一人に我慢してもらうという解決策は、「えー、それは公平とは言えない」という人をかなりの数で生み出してしまうと、私は思います。2個食べられる人が一人いる16個のケースと、0個食べられる人が一人いる14個のケースでは、共に完全に公平な状態が崩れてしまっていますが、16個のケースより14個のケースのほうが、より大きく公平性を損なったと私は思います。
人によって感じ方は様々ですが、完全に公平な状態が崩れたとき、公平性のあるなしで、優劣をつけることは、ややもするとできますから(↑いまやりましたね)、公平性が高い、公平性が低いということは日本語としてあり得るわけです。しかし本当ですか?私と全く逆の考え方の人もいるわけですから、迂闊に「〇〇は公平性が高い」とは言い切れないわけです。
ただしこの問題は「ジニ係数」という道具立てを利用することで、「16個のケースの方が公平性が高い」という一定の解答を導き出すことができます。しかし本当ですか?あくまで「ジニ係数」という単一の道具を、必ずしも今回のケースを分析するために生み出されたわけではない道具を、「使える」と断言して使ってみることは正しい結論を導いたとする根拠になるのでしょうか。
またこの問題は「貧困ライン」という道具立てを利用することで、「一個もリンゴを食べられないという絶対的貧困に直面した者がいるのだからより深刻な不平等だろう(16個のケースの方が公平性が高い)」と一定の解答を導き出すことができます。しかし本当ですか?リンゴを食べないと死んでしまうのでしょうか。
しかし今日「格差社会」という議題で問題視されるものは、「貧困」であって、圧倒的に14個のケースを問題視して言及するパターンがほとんどです。
既存の議論として「シングルマザー」
貧困の問題を考えるとき、たとえばシングルマザーに注目することは、より深刻な貧困層である、たとえばホームレスを無視した議論をすることになりませんか?しかし、「だから貧困に関する議論としてナンセンスだ。」ということには、なりません。それは、世帯年収300万円台の家計に注目して、「子の大学進学への意識」という議題を考えることがナンセンスではないことと同様です。しかし、であればなおさら「どのようにして貧困を議論して、みせればいいのですか?」という疑問に至るわけです。アカデミックな手法として、既に多くの専門家が注目している議論に、自分も専門家を習って、参加してみるということは推奨されます。多くの専門家がシングルマザーに注目しているから、そのような小論文を書くことは、「受験生が的を得た議論をしようと努めてそうなった」という好印象を確実に勝ち取れます。小論文考査の予備校講師でも質の良い講師でないと、こういう教え方をしないですね。