ある手段が、情報を手に入れる手段として正しいかどうか理性的に判断する基準に、伝搬する情報自体が正しいかどうかを理性的に判断する基準は、別次元の問題であり、引き合いに出すべきではない。
なぜなら、価値判断には主観主義的価値と客観主義的価値があり、前者であれば、ある者に正しい情報は別の者に正しくないということを認めることになる。しかし客観主義的価値ということは、たとえばヘーゲル的な、国民が国家の普遍的意思を洞察して一体となるところの価値判断をもってしても、たとえば政見放送は正しい情報とは限らないものの、伝搬の方法論はいたって公正なものにあたる。
現代のヒューマニズム、特に日本であれば「和の精神」と矛盾しないことに一定の価値が、学習によって築かれた社会で、情報を手に入れる手段として正しいかの基準は、受け手に公正であるかどうかである。それは、意図的な偽情報を排除し、全員一律に配る手段、具体例であれば新聞や出版物がもっとも正しいものに近いと言える。