車椅子に乗る者に、「通れないんだな。」と言われた。筆者が思ったことは、「健常者が『通れないんだな。』の一言で道を開けてもらうことはない。」と言うことだ。健常者の言葉のやり取りのほうを常識として知っておけという意味で、思った。車椅子生活が長いと思考が独特になるのは、彼らを見ればわかる。
逆に筆者が、車椅子に乗る者に「通れないんだな。」と言ったとして、車椅子に乗る者は「(物理的に)難しいんだけどな。」と思うに違いない、しかし言っている意味はそうではない、と、思ったとき、流石に「お前がそのような身になれ」と自分で自分自身に言った、思った。「そんな風になりたくない。」だから道を開けるのである。これが障碍者への理解としては、普遍的なものだと筆者は思う。
翌朝、筆者は夢で少女に出会った。「普遍的ではない」と言う。筆者は、はっとして言った、「君は一瞬でも代わってあげたいと思うことがあるのか、それは想像の欠落ではない。」。
さらに半月ほどして、筆者は夢で少女にまた出会った。今度は友達を連れてきて、「代わってあげたいわけでも、そんな風になりたくないわけでも、ない、ということは一切ないのですか。」と言う。筆者は少し考えて、「アメリカンフットボールの選手であれば、まさにそうかもしれないが、障碍者となれば基底として『自分は健常者のほうでいたい』と思う気持ちが敷かれているのではないだろうか。」と答えた。すると友達の少女のほうが「いまのでわかった。」と言ってくれた。