聡明な若者の中には自分の心身の指針にすべく客観主義的な価値に傾倒してみせる者も少なくない。一昔前のシールズのような平和主義に傾倒した若者など、まさに客観主義的な価値に傾倒した聡明な若者の集まりだ。しかし、客観主義的価値には一定の権威性があることは事実だと思う。もちろん筆者も、平和を愛している。ただ、若者が自分の心身をまもるために自分自身傾倒した価値を守るということであれば、意味合いが変わってくるだろう。彼らが守りたいのは自分自身だし、彼らが愛しているのは平和を愛している自分である。客観主義的な価値とは、つまり「Aさんにとって価値があるが、Bさんにとって価値がない」という対立がない価値ということになる。それは、大勢の人物の「YES(価値があります)」を学習したり、「叩かれたくない」、「悪口を言われたくない」など物事の類似性から「失いたくない」という概念を導き出したりすることで、それは客観主義的価値だという考え方になる。普遍的な平和というものが見えてこなくても、「誰も何も失わない時間」というものの価値は、「平和」として、客観的だ、ということになる。ただし、客観主義的な価値とは、たとえばここで言う「平和」とは、平和という普遍的な本質があるとは限らない。
唯名論をひくとわかりやすく説明できる。「コップ」と言われれば何を指しているのかわかる日常の場面は多いが、「コップ」は名称であって、コップという普遍的な本質があるわけではない。コップには、現代哲学で言うと容器という実体があるが、「容器」にしたってそこに名付けられた名称に過ぎないと言うことだ。容器とひとまとめにするような個別の物体(個物)がどんなにたくさんあっても、それらをひとまとめにして「容器」と呼んでいるに過ぎないと言う。これが唯名論である。
※下記は唯名論ではない、筆者の論述である。
赤いコップ(正)
→赤でないコップ(反)
→コップ(合)
コップである容器(正)
→コップでない容器(反)
→容器(合)
弁証法を用いたが、赤いコップには、赤いコップ、コップ、容器という三つの実体がある。対象が赤いコップであれば、話し手が「赤いコップ」と言った際、聞き手は「容器」と受け取ることがあるし、話し手が「容器」と言った際、聞き手は「コップ」と受け取ることがある。「平和」についても同様で、話し手が「平和」と言った際に、平和を実体としてもつ個物的なものの集合と、そして平和が実体とする個物的なものの集合の、和集合の中から何かが選ばれて聞き手に受け取られるのである。社会主義国が思い描く平和かもしれないし、核兵器がないことかもしれないのである。
活動とは、活動理念の絵画さながら、その活動理念を考える者の自我の能動であって、たとえばコップと言いながら花瓶の絵を描いたら、要するに容器という意味だったのねとなってしまうのである。筆者がシールズに見出したものは、筆者が残念なのか、または彼らが残念なのか、あるいは両者が残念なのかわからないが、「平和主義も権威性を帯びるのだな。」という認識であったのだ。