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芸術

ピカソの《夢》 (https://www.musey.net/1471/1472)は、筆者が一番好きな絵画だ。描かれている女性の魔力に魅せられて以来、絵画と言えば、ピカソの《夢》である。知人に「(冗談めかして)ピカソは本当に守りたい女性を描いたんだと思うよ。」などと言ったことがあるが、描かれているモデルの女性(マリー・テレーゼ)は三年後に娘マイアの母になった人物だと、後で本で知った。また、女性の右半身は勃起したピカソの男性器のメタファーだと言う。それで右肩が盛り上がっていて、女性の率直な妖艶さに重ねたのだという理解が、本に載っていた。

ルネサンスは「自我の能動」であり、芸術とはルソー(1712~1778)をして「自由」だと言う。ピカソも、自我を能動的に、絵画を描いていた。芸術作品の中に哲学的な価値観を見出してしまうようでは、画家の世界観の住人になったに過ぎないのだろう、筆者はピカソの絵が好きすぎるようだ。

平和

聡明な若者の中には自分の心身の指針にすべく客観主義的な価値に傾倒してみせる者も少なくない。一昔前のシールズのような平和主義に傾倒した若者など、まさに客観主義的な価値に傾倒した聡明な若者の集まりだ。しかし、客観主義的価値には一定の権威性があることは事実だと思う。もちろん筆者も、平和を愛している。ただ、若者が自分の心身をまもるために自分自身傾倒した価値を守るということであれば、意味合いが変わってくるだろう。彼らが守りたいのは自分自身だし、彼らが愛しているのは平和を愛している自分である。客観主義的な価値とは、つまり「Aさんにとって価値があるが、Bさんにとって価値がない」という対立がない価値ということになる。それは、大勢の人物の「YES(価値があります)」を学習したり、「叩かれたくない」、「悪口を言われたくない」など物事の類似性から「失いたくない」という概念を導き出したりすることで、それは客観主義的価値だという考え方になる。普遍的な平和というものが見えてこなくても、「誰も何も失わない時間」というものの価値は、「平和」として、客観的だ、ということになる。ただし、客観主義的な価値とは、たとえばここで言う「平和」とは、平和という普遍的な本質があるとは限らない。

唯名論をひくとわかりやすく説明できる。「コップ」と言われれば何を指しているのかわかる日常の場面は多いが、「コップ」は名称であって、コップという普遍的な本質があるわけではない。コップには、現代哲学で言うと容器という実体があるが、「容器」にしたってそこに名付けられた名称に過ぎないと言うことだ。容器とひとまとめにするような個別の物体(個物)がどんなにたくさんあっても、それらをひとまとめにして「容器」と呼んでいるに過ぎないと言う。これが唯名論である。

※下記は唯名論ではない、筆者の論述である。

赤いコップ(正)

→赤でないコップ(反)

→コップ(合)

コップである容器(正)

→コップでない容器(反)

→容器(合)

弁証法を用いたが、赤いコップには、赤いコップ、コップ、容器という三つの実体がある。対象が赤いコップであれば、話し手が「赤いコップ」と言った際、聞き手は「容器」と受け取ることがあるし、話し手が「容器」と言った際、聞き手は「コップ」と受け取ることがある。「平和」についても同様で、話し手が「平和」と言った際に、平和を実体としてもつ個物的なものの集合と、そして平和が実体とする個物的なものの集合の、和集合の中から何かが選ばれて聞き手に受け取られるのである。社会主義国が思い描く平和かもしれないし、核兵器がないことかもしれないのである。

活動とは、活動理念の絵画さながら、その活動理念を考える者の自我の能動であって、たとえばコップと言いながら花瓶の絵を描いたら、要するに容器という意味だったのねとなってしまうのである。筆者がシールズに見出したものは、筆者が残念なのか、または彼らが残念なのか、あるいは両者が残念なのかわからないが、「平和主義も権威性を帯びるのだな。」という認識であったのだ。

理性

羽をもがれた蝶にも生命があり、死するまでの間に活路と彼女なりの哲学が勃興するのです。しかし死刑とは、その場で魂を処断することになります。死刑は憎しみを肯定し、許さなくてよいと命じているのです。

筆者は、死刑に反対である。理由は、上記の通りである。ヘーゲル(1770~1831)の主張とは、「法とは個人と国家との整合的な理性である」という結論を導出できるものだ。法に、いずれも、もう片方に先行するところはないという。あえて全く対立するフーコー(1926~1984)の「理性は歴史の過程の産物である」をここで援用すると、死刑こそ最も整合的な理性になりかねない。そこはヘーゲルとフーコーが全く対立しているからこそ、そのようなエラーを弾き出してしまうのだろう。では、ヘーゲルの言う理性とは、プラトンのイデア論のように普遍的なのか、デューイ(1859~1952)の道具主義的プラグマティズムのように個別に具体的なのか、という悩みに直面する。まずヘーゲルの言う理性とは、社会制度なのであり、そしてプラトンの言う意味の「普遍」を継承する考え方だった。国家の普遍的意思を国民が洞察して一体となる、この整合性が国家の理性と国民の自由だった。つまり、法である。ここで、ヘーゲル自身にも良い法律と悪い法律とがあるという感覚があったように、死刑に賛成する者のほうに傾聴する日本は、ヘーゲルの意味で果たして理性的な良い法律であるとしているのだろうか。まず、国家の普遍的意思として「許さない」があって、それを国民が洞察して一体となっているのかということである。

ヘーゲルの理性とは、普遍的というよりは不動点的だと筆者は思う。もちろんヘーゲル自身が「普遍」を見出したのであれば、それを追従するのも全く悪くないものではある。ただ国家の普遍的意思のほうが普遍的に理性であるとは全く限らない現実で、ヘーゲルの指示しているものは啓蒙専制君主の擁護論ではないのかと思ってしまったりもした。

科学と善人

デカルト(1596~1650)は、演繹法、「絶対に確実な真理」から出発して理性による推論を重ねる科学の方法論を打ち立てる際、同時に帰納法の限界を指摘した。帰納法では常に反証があると言う。この二つの功績についてデカルトが前段階的に唱えたことが、「良識はこの世で最も公平に分配されたものである。」という言葉であり、真と偽とを区別する判断力や理性は、人びとが生まれつき具えている能力だと言う。うまく使えるかどうかだと言う。筆者はこの前段階的な述懐を、方法的懐疑、「疑え」、の大人物であるデカルトに敬意を表しながら「演繹法をもってして間違えることを予め擁護した。」と言ってしまいたい。デカルトの功績自体が循環論法であることは、デカルトの功績をさらに理性的に判断する「体系」の出現を待つべきだろうか、しかしデカルト自身が自分宛にそのような関わり方を辞めなかったと筆者は思う。

理論経済学の「モデル」という方法論は帰納法で導かれる問題意識を、演繹法で出迎えるという方法論である。たとえば「猫がネズミを追いかける」、その姿を三回も見たことがあるから、「正しい」という問題意識を持ったとして、

「肉食獣はネズミを追いかける」

「猫は肉食獣である」

「猫はネズミを追いかける」

と、演繹法で出迎えることができる。ここで出迎えた演繹的推論の部分を犬や虎にあてはめて予測に役立てることができる。

国によって政治や経済のシステムが異なっても、経済学の有用性がドメスティックなものとは限らないことに、帰納法の段階で国際的である必要は必ずしもない。たとえばケインズ(1883~1946)の有効需要の原理など、アメリカのニューケインジアンに受け継がれている。

ただ、デカルトの功績を、帰納法の「限界」と呼び合って、「否定」とは断じて言わないことは、彼の生きざまに一抹の誤解を生む。彼は、「二つの時計が同じ時刻を示しているのは『同じ歯車で合体しているからだ』と答えるだろう」という比喩に例えられるほど、もの言い草がはっきりしている人物だったからだ。

y が xの一次関数であれば、x = x1+ x2+ … +xn と分解して、各要素が(たとえばx1の値が判明するなどして)明らかになるにつれて、そのぶん y の値を知ることに近づいている。しかし、y が x の二次関数であれば、 x = x1+ x2+ … +xn と分解した段階で、

y = x1x1 +x1x2 + … +x1xn

+x2x1 +x2x2 + … +x2xn

+xnx1 +xnx2 + … xnxn

調べる必要のある項が増え、もしも、たとえば x1 だけ分からなかったら、結局 n個の項が不明で残存する。デカルトの方法論は非線形な客体に対しては複雑怪奇を堂々巡りしてしまうかもしれない。

オセロゲームの道具をつかって、石並べの遊びをする。縦横は異なる色(白か黒)で、斜めは同じ色(白か黒)で並べる遊びをすると、盤面の完成図は二通りになる。一人の人物にこの遊びをしてもらったときに、左上隅が「白」になる確率は全く予測ができないだろう。この予測困難さが、「変数を全部知らないからだ」とするものなのか、「変数を全部知っていたとしても予測困難だ」とするものなのかは、判断しきれないだろう。前者は、クローン人間やジグソーパズルのような意味合いの難問に「過ぎない」とする考え方であり、つまりデカルトの思想である。

デカルトは、「神」が存在して、その神の誠実さが、人間の明晰で判明な認識を保護していると考えた。神を見たことがない人でも、神がいると思っているのは、本当に神が存在して、そういう考えを持つことができると言う。

紀元前800年頃から紀元前500年頃にインドで流行した「ウパニシャッド」はバラモン教の経典であり、「梵我一如」の一元論であった。宇宙の根源である「梵」と人間の根源である「我」が同一同体であると言う。バラモン教の「輪廻」、「業」、「解脱」は釈尊も参考にしたものである。バラモン教は現代でも知識階級の間で哲理として生きている。ヒンズー教は民衆主教であり、バラモン教に原始的な通俗信仰が加わったものである。前500年頃にバラモン教の教義と現実の違いに目を向けた六師外道が精神(霊魂)と物質(肉体)との二元論を唱える。そのうちジャイナ教は禁欲主義の信仰である。釈尊は、バラモン教と六師外道の両方を参考にし「縁起」の概念を打ち立てた。縁起(因と縁によってすべてのものは生じている)という思想は、ナーガ・ルージュナの「空」、「無自性」によって明確に無元論となる

ナーガ・ルージュナの教えとして、万物に仏性がある。たとえば花は万物に含まれるから仏性がある。仏性とは「仏の本性」と通俗的に説かれる。ただし無自性である物質の花は、実体として仏になり得るのではなく、現象界、現世である「色」において、仏、救済仏の仮の姿であり得る。現象としてである。その縁によって、あり得るためには、ヴァスバンドゥの教えによれば「心(識 しき)」の「アラヤー識」を浄化すべしと言うことだ。

アラヤー識を浄化すべしとは大乗仏教(民衆を救済する仏教)の教えであり、日本の浄土真宗では、悪しき故に浄化できないことの「自覚」をもって阿弥陀仏の慈悲、他力の本願力によって救済されると説かれる。これを悪人正機と言う。

自覚には一次の自覚と高次の自覚とがあり、悪いことを悪いことだと自覚することが前者であり、そのようにしていても、いつまでも同じことの繰り返しだと自覚することが高次の自覚である。浄土真宗として「自覚」とは後者がより近い意味であるが、あくまで近い意味である。

悪人:悪いことだと知っていながら、悪いことをする。

凡夫:悪いことだと知っていたら、悪いことをしない。

善人:悪いことをせず、悪いことだと知っている。

悪人→凡夫が一次の自覚であり、善人→悪人が高次の自覚である。善人だと思っている者ですら往生するのだから、悪人なおもって往くとは、浄化に勤めることは前提として、しかしその行によらない救済である必要がある。行によりけりでは、どれだけの行が必要かとなり、救われない者が規定されてしまう。つまり一切衆生救済に反してしまう。