正義

アメリカンフットボールの大本営NFLは、なぜ面白いのか、という問いに「レベニューシェアで勢力均衡を図っているからだ」と答えることは定石だった。皮肉めいた言い方をすれば、それが面白い人がNFLを好きなのである。つまり、どんなに有力な選手でもチームの予算内の年俸額であり、そしてどんなに強いチームも、最下位のチームと同程度の予算で選手に年俸を支払うという方法論が試されていて、成功している。ただ、何が互いを疲弊させて、互いに消耗してしまうのか、なんとなく見抜いていて、かつ実践し、循環を生み出しているのであれば賢明である。

Ⅰという階層で競争が行われることが、Ⅱという階層の競争力につながることは自明ではない。同じ方法論同士で、しかし目的や目標が異なるという理由で争ってしまうことは、別の方法論に漁夫の利を許す可能性をはらんでいる。AチームとBチームが真剣に討論をしていたら、その時点で参加していないチームを除名処分にすることは必須だ。少なくとも真剣に討論をするという方法論に勝たせるためである。

結論から言うと、自分の考えが正義だと思う者は、声を止めないことが最大の自衛である。討論の好敵手に恵まれようと、恵まれまいと、普遍的に公正な方法論に鎮座することは正義として戦い続けることと同値である。

筆者なりに、2005年~2006年のライブドア堀江社長が、あの当時残念だったと思うことは、ベンチャーであるライブドアのほうが声高に資本の話をしていたことだと思う。「能力を買え」というメッセージングは「美人広報」というキャッチと相まって薄れていた。人材の登用もままならない社会が浮き彫りになった濡れ衣を、マネーゲーム批判と共に着せられたのは数年も経っていない。ライブドアがオープンソースのレコメンドエンジンを開発して無償配布していたことを知っている人は、おそらくほとんどいないだろう。公益志向なのである。あの当時インタビューで堀江社長の「(目標は)世界平和」と言った発言の、周囲の反応から、筆者はなんとなく敗色を感じた。しかし、それだけに真実味があった。本気で言っている気がした。

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